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息子は選べないが、婿は選べる——『茶金』姜阿新と、血のつながらない三代

息子は選べないが、婿は選べる——『茶金』姜阿新と、血のつながらない三代

はじめに

台湾ドラマ『茶金(ゴールドリーフ)』は、実在の茶商・姜阿新(きょう・あしん/1901–1982)に着想を得た作品です。

ただ、この家の話をするなら、姜阿新ひとりでは足りません。彼の父と、彼の娘の夫を並べて、はじめて筋が見えてきます。

三人とも、姜家の血を引いていません。三人とも、養子縁組によって外から迎えられ、この家を預かりました。そして三人が三人とも、預かった家をどうするかという問いに、まったく違う答えを出しています。

一人は、何もするなと言われて、アヘンを吸って寝ていた。

一人は、それに逆らって家業を巨大にし、そして潰した。

一人は、二十年かけて本を書いた。

儒教が説く「孝」——親に仕え、職責を果たし、身を立てて親の名を揚げること——を考えるのに、これほど良い教材はそうありません。血のつながりが一本もない家で、それでも孝は成立するのか、という話だからです。

寝ていた父——姜清漢

北埔の姜家は、血を引く男子に恵まれない家でした。第4代大房の姜紹安は18歳で世を去り、遺腹の子・姜清相のあと、家系は細るばかり。そこで湖口の張家から迎えられたのが、姜清漢です。

彼が継いだのは、途方もない財産でした。娘婿の廖運潘が、のちにこう証言しています。姜家の子孫は各房が毎年三千石の穀物を分配されるが、他の房は子だくさんで分ければ消えてしまう。ただ姜阿新のいた大房だけは一戸では食べきれなかった、と。当時の公務員の月給が四十元。三千石はおよそ二万元にあたります。

外から来た人間が、食べきれないほどの財産を預かる。周囲が彼に求めたのは、増やすことでも使うことでもなく、減らさないことでした。

その結果が、これです。廖運潘は書いています——姜阿新の父・姜清漢は、ほとんどいつも寝床でアヘンを吸っていた、と。

何もするな、と言われた人が、何もしないままでいるために、アヘンを吸わされていた。ぼんやりと、生涯を過ごした人でした。

逆らった息子——姜阿新

姜清漢にも男子はできませんでした。そこで宝山の蔡家から迎えられたのが、姜阿新です。1901年生まれ。父と同じく、養子として外から来た跡取りでした。

彼は大切に育てられ、東京の明治大学へ進みます。ところが十九歳の夏、台湾から学校へ戻ろうとしたとき、祖母が別れを惜しんで泣きました。姜阿新は行くに忍びず、学業を捨てて台湾に残ります。そして北埔郷公所で、日本人郷長の秘書になりました。

この回り道が、彼の人生を決めます。

役場にいた彼は、日本政府が「工業日本、農業台湾」の方針を進めていることを知りました。そこで当時日本最大の茶業貿易商であった三井に話を持ちかけます。三井が五万元、自分が五万元。合わせて十万元で、大型の機械製茶工場を興しました。五万元といえば、当時およそ五十甲の土地が買える額です。

父は、何度も反対しました。当然です。父自身が、何もするなと言われて生きてきた人でした。

姜阿新は、父に隠れて動きます。大坪や四十二坪の先祖伝来の土地で植林事業を成功させ、その実績を見せてはじめて、父から資金を引き出しました。

茶虎

そこからの十数年は、疾走です。

三井物産と提携し、北埔に最新設備の紅茶工場を建設。北埔(昭和9年)、峨眉(昭和10年)、衡山、五峰、大坪(昭和11年)と工場を買い重ね、1939年には北埔と大坪に二つの大工場を擁して、台湾最大規模の機械化製茶工場を運営するに至ります。

「Ho-ppo tea(北埔茶)」のブランドを立て、スリースターの商標と王室御用達を思わせるロゴで高級感を演出しました。当時の国際紅茶市場はダージリンの独壇場でしたが、彼の紅茶は品質でそれを凌ぐと言われるまでになります。

台湾茶業界に「姜阿新の旋風」が吹きました。人は彼を「茶虎」と呼びます。永光茶葉公司を軸に、林業・製糖・運輸へと投資は広がり、1951年には第1期台湾臨時省議会議員、新竹客運の董事長も務めました。

そして洋楼です。1935年の中部大地震で建物の一部が倒壊したこと、そして世界中から来る客をもてなす場が必要だったことから、1946年に着工。三年半をかけて1949年に竣工しました。設計は、伝統にとらわれない若い建築家・彭玉理。半円アーチ、出窓、北投から運んだ唭哩岸石の塀。内部には自営林場から採った烏心石、檜、樟、欅、香杉。妻・詹蒜妹とともに、彼はここで賓客を迎えました。

何もするなと言われた家を、彼は台湾でいちばん有名な茶商の家に変えたのです。

崩壊

1950年以降、インドなどの主要産地が生産を再開すると、台湾紅茶は国際競争力を失います。

茶金は茶土となり、やがて「茶狗屎」とまで言われるほど値を落としました。拡大のために抱えた借入金が、そのまま首を絞めます。緑茶輸出への転換、ウーロン茶の品質向上、茶葉乾燥機でニンニクやマッシュルームを乾かして売ることまで試しましたが、利息には追いつきませんでした。

銀行は雨の日に傘を取り上げます。高利貸しに回り、そして限界が来ました。

このとき会社の総経理を務めていた娘婿・廖運潘は、義父にこう言ったと記録しています。これでは負担しきれません、と。姜阿新は答えました。整理すれば、会社は儲かる。

儲かる前に、利息が会社を潰しました。負債八百万元。あの豪華な客間で、二人は夜通し帳簿を突き合わせたといいます。廖運潘は、土地を売れば家だけは守れるかもしれないと言いました。

1965年、破産。洋楼は合作金庫に差し押さえられました。一家は夜のうちに北へ発ち、八人が台北の十坪ほどの借家に移ります。廖運潘は生計のため、一時は四つの仕事を掛け持ちしました。

妻の姜麗芝も働きました。彼女は永光が傾きはじめた頃、突然台北へ出て美容師の訓練を受け、北埔で最初の職業美容師になっています。横屋の玄関では、北埔初のガス店を開いてボンベを売りました。そして台北に移ってからは、卓越したミシン刺繍の腕で、学校の名札を刺繍する商売を始めます。夫が四つの仕事を掛け持ちし、妻が刺繍で稼ぐ。十坪の借家の暮らしは、そういうものでした。

北埔の人々の姜阿新評は、そこで真っ二つに割れます。戦後の恐慌のなか村の暮らしを支えた恩人であり、同時に、倒産で多くの村民を失業と離散に追いやった当事者でもあったからです。この二極化は、今も解けていません。

姜阿新は、富商から小屋の片隅に身を寄せる身となってなお、一言も怨み言を言わなかった——そう書き残した人がいます。

三人目——廖運潘

その人の名は廖運潘。1928年、新竹州観音庄の生まれです。父は街で漢方薬屋と雑貨店を営んでいました。観音郷から初めて台湾大学に入った秀才で、卒業後は銀行に勤めます。

姜阿新にも、男子はできませんでした。娘ばかりです。

だから廖運潘は、日本語でいう婿養子として姜家に迎えられ、家の求めに応じて銀行を辞め、永光茶廠へ移りました。父の代、祖父の代とまったく同じ経路です。三代続けて、この家は養子縁組で続いてきました。

姜家に入ったことは、子供の名前にも表れています。廖運潘と姜麗芝の子のうち、洋楼の買い戻しを進めた廖惠慶さんは父の姓を、『茶金歲月』刊行後にメディアで家の歩みを語ってきた姜惠琳さんは母の姓を名乗っています。姜の名は、この代でも受け継がれました。

ここは日本の感覚だと、少し飲み込みにくいところだと思います。日本にも婿養子はありますが、婿はやはりどこか他人で、血のつながりのほうが強いと感じられる。大きな家では「息子は選べないが、婿は選べる」と言って、実の息子より優秀な婿が来れば婿を跡取りに据えることもありますが、そこでたいてい争いが起きます。選ばれた他人だからです。

そして婿は、出ていけます。家が傾けば、なおのことです。しかも手ぶらでとは限りません。金がないならこの家のここを切って寄こせ——そういう話は、日本ではさほど珍しくありません。婿が継ぎたいのは、家というより財産だからです。金の切れ目が縁の切れ目、といいます。

廖運潘は、出ていきませんでした。破産して、洋楼を取られて、台北の十坪の借家に八人で入ってからも、彼は姜家の子であることをやめませんでした。金の切れ目が、縁の切れ目にならなかったのです。

姜家はそうではありませんでした。こうして家に入った者は「娘の夫」ではありません。姜家の子です。血はつながっていなくても、家業を負い、祭祀を担う。祖先が求めているのは子孫の血ではなく、正しい位置に立って供物を捧げる者だからです。この家において、血縁は継承の条件ではありませんでした。

日本の感覚でいえば、戸籍に入れば子です。血ではなく、登録が子かどうかを決める。廖運潘が姜家の子だというのも、そう思っていただければ近いはずです。

だから姜阿新は、廖運潘にとって「妻の父」ではなく、父です。姜家の名誉は、他人の家の名誉ではなく、彼自身の名誉でした。

ドラマは、この仕組みを壊すところから始まる

ここで『茶金』の話をしておきます。

ドラマのヒロイン・張薏心は、姜麗芝を脚色した人物ではありません。脚本家が一から創作した架空の人物です。そもそも『茶金』には原作がなく、オリジナル脚本として書かれました。吉桑(張福吉)は姜阿新を原型としながら、複数の茶商の逸話を混ぜて造形されています。入婿として妻の家に入った高学歴の人物や、父を早くに亡くして家の茶廠を継ぎアジア最大にした人物などが、吉桑に織り込まれているそうです。K.Kも山妹も架空です。

そのドラマの出発点が、まさに婿養子でした。吉桑は独り娘の薏心に婿を招いて家業を継がせ、一族の栄華を続けることを願っています。薏心のほうも、婿を取るものだと思っていました。婿になる予定の文貴は、すでに家に入って家業の修行をしていたのです。

ところが四万対一の通貨改革で資金繰りが詰まり、怡和洋行との契約も切れ、頼みの茶師・阿土師が事故で亡くなる。家が傾いたと見るや、文貴の父が乗り込んできて、息子を連れ帰りました。

拒んだのは、婿の側でした。

薏心は仕方なく、自分で茶の売り込みに出ることになります。そして婿になり損ねた文貴は、その後、彼女の商売を妨害する側に回りました。

ここでドラマは、この記事と同じことを言っています。婿が入るのは財産があるからで、財産がなくなれば出ていける、と。金の切れ目が縁の切れ目です。

売り込みに出た薏心は、女性の茶師・山妹と組みます。男の茶師たちに信用されない、若い女の職人です。婿に去られた娘と、認められない女の職人。ドラマは、家の外に置かれた女二人が家業を回す話に作り替えたことになります。山妹もまた、架空の人物です。

孝の三段——事親・事君・立身

『孝経』は、孝を三つの段階で説きます。始於事親、中於事君、終於立身。親に仕えることに始まり、与えられた職責を果たすことを経て、身を立てて名を揚げることに終わる、と。

姜阿新はロマンチストで、義理人情を重んじるあまり損をかぶることの多い人でした。廖運潘は会計を見て義父を補佐し、経費を切り詰め、債務を負った茶師や従業員を助け、経営の立て直しに奔走します。ここまでが、事親と事君。

問題は、三段目です。身を立てて親の名を揚げる、というその親が、破産して評価の割れた人物になってしまったとき、子には何ができるのか。

130万字

1995年、六十歳を過ぎた廖運潘は、作家・徐仁修の勧めで、生涯に見聞きしたことを書き始めます。

公開するつもりはありませんでした。家族のための私記です。

書きながら彼は、破産の内実を記録していきました。政治的な危機と経営の行き詰まりのなかで破産を宣告されるほかなくなったとき、信用を重んじる姜阿新は、まず茶農家と社員に資金を回した。台湾の情と義を貫いた人だった——と。

二十年かかりました。全9冊、約130万字。表題は『想到什麼就寫什麼(思いつくままに書く)』。完成したのは2017年、彼が89歳のときです。

なぜ二十年もかかったのか。第7冊、つまり破産前夜の年月にさしかかったところで、彼は悲痛のあまり筆が止まりました。中断は七年近くに及びます。

破産のあと、廖運潘と妻・姜麗芝は、洋楼に足を踏み入れることさえできませんでした。あそこは、傷の場所でした。

2012年——四代目

その筆を動かしたのは、彼自身ではありませんでした。

洋楼はその後、同郷の新光グループ・呉東昇に賃借され、金広福文教基金会の会址として一般公開されます。姜家の子孫は、自分の家に入るのに入場券を買わねばなりませんでした。

2012年、合作金庫が洋楼を競売にかけると聞いた孫娘たちが、ひそかに入札しようとしました。それを叱ったのは廖運潘です。呉東昇氏には洋楼を守ってもらった恩がある、背信忘義なことができるか、と。

その筋を通したうえで、子供たちが洋楼を買い戻しました。

そのとき廖運潘は、「悔いが埋まった」と感じ、七年ぶりに筆を執ります。残りを書き上げ、全巻を完成させました。妻とともに洋楼に戻り、ようやく昔の話をしたといいます。

2021年、娘の廖惠慶が9冊から北埔茶業の盛衰を選び出して編み直し、『茶金歲月』として世に出ました。これがドラマ『茶金』の原型です。

洋楼は2001年に県定古蹟に指定され、2018年に修復が完了。現在は姜阿新教育基金会が運営し、ガイド付きで公開されています。案内するのは、子孫です。

天高し 北埔洋楼 雨後の晴れ

買い戻しの喜びを、廖運潘は俳句にしました。

天高し 北埔洋楼 雨後の晴れ

日本統治下の台湾に生まれ、日本語で教育を受けた世代です。家の名誉が戻った瞬間の心情を、彼は日本語の十七音で言い留めました。

洋楼を訪ねる

私は日本でこのドラマを見て、どうしても洋楼を見たくなり、台湾へ行きました。行き方を書いておきます。

台北駅から台湾鉄道の自強号で約1時間、台鉄新竹駅に着きます。日曜の自強号は混むそうなので、予約をおすすめします。私が乗ったときも満席でした。

なお高速鉄道の新竹駅は台鉄新竹駅とは離れた場所にあり、周囲に何もないため、洋楼へ向かうには不便だそうです。

新竹駅からはタクシーを予約し、参観のあいだは待機してもらって、北埔との間を往復しました。この一帯には、今も本当に何もありません。

案内してくださったガイドさんは、姜阿新さんのお孫さんでした。英語でもお願いできるようでしたが、それだと他の台湾人の参加者を待たせてしまいます。台湾で会社を持つ知人が現地の言葉に通じていたので、中国語でお願いしました。

その日の参加者は、私以外は全員、台湾各地から来た台湾人でした。

正直に書いておくと、ガイドさんの話す言葉は、私の聞き慣れた普通話とは違って聞こえました。台湾華語だったのか、客家語だったのか、台湾語だったのか、私には聞き分けられません。北埔は客家の町で、姜家も客家の望族ですから、客家語だった可能性もあると思います。

聞き分けられないまま案内を受けた——これはこれで、台湾という土地を体験したということなのかもしれません。(『茶金』の登場人物が場面ごとに言語を切り替える理由は→「[『茶金』の多言語——五つの言語で生きた1950年代台湾]」)

【さとえの見立て】

かつてこの何もない場所に、台湾最大の機械化製茶工場が二つあり、世界中から買い付けの客が来て、そのためだけにあの洋楼が建てられました。今はもう、何も残っていません。

それでも、台湾各地から人が来ます。日本でドラマを見ただけの人間まで、タクシーを雇って来ます。そして、孫が案内する。

姜阿新という人は、今では尊敬されているのだと思います。破産から半世紀以上を経て、評価の割れていた人が、人の集まる場所に戻った。廖運潘が二十年かけて書いたものは、こういう形で効いているのだろうと、あの日思いました。

ここから先は、三人の話です。三代とも、血のつながらない家を預かりました。

もうひとつ。ドラマは、婿が去るところから始まります。文貴の父が息子を連れ帰ったのは、家が傾いたからでした。婿が入るのは財産があるからで、財産がなくなれば出ていける。ドラマは、そこを正直に書いています。

史実の姜家には、潰れたあとも残った婿がいました。廖運潘です。彼は出ていかず、三十年後に筆を執りました。

出ていく婿と、残った婿。同じ仕組みから、両方が出てきます。ドラマが文貴を書いてくれたおかげで、廖運潘が何をしなかったかが、かえってよく見えるようになりました。

山妹が女性の茶師なのは、おそらく現代の観客を意識した創作でしょう。証拠はありませんが、そう思います。婿に去られた娘が、認められない女の職人と組む。家の外に置かれた者どうしで家を回す——という筋書きは、婿を迎えて家を継いできた姜家の実際とは、ちょうど正反対の方向を向いています。同じ立場に置かれて、答えは三つに分かれています。

姜清漢は、何もするなと言われて、何もしませんでした。アヘンを吸って寝ている以外に、外から来た者が家を減らさずにいる方法を、誰も彼に教えなかったのだと思います。

姜阿新は、逆らいました。家を大きくすることでこの家の子であろうとして、そして潰しました。皮肉なことに、父の言いつけを守っていれば、家は残ったのかもしれません。

廖運潘は、書きました。財産はもう戻らない。それでも名前は戻せる、と考えた人です。

北埔の人々の姜阿新評は、今も二つに割れたままです。事業に潰された側の記憶と、恩を受けた側の記憶と。そのうち一方だけが、130万字の記録を持っている。

これは「勝者が書いた歴史」の、きれいな裏返しだと思います。書いたのは、負けた側でした。全財産を失い、台北の十坪の借家に八人で暮らした家族の側です。歴史に残るのを決めるのは勝敗ではなく、誰が最後まで書き続けたか——そう言い換えたくなります。

おわりに

孝の終わりは、身を立て、親の名を揚げることにある。

廖運潘はそれを、二十年の執筆と130万字で果たしました。屋敷を取り戻したのは彼ではなく、彼の子供たちです。孝は一代では完結せず、次の世代の手に渡って完了しました。

三代にわたって、この家には姜家の血を引く男子の跡取りがいませんでした。娘はいたのです。それでも娘は家を継げないから、その都度、外から男子を迎えました。

そうやって家は続き、名は戻りました。姜家が証明し続けてきたのは、家をもりたてるのは血ではない、ということだったのだと思います。

破産のあと、廖運潘は必死に働いて子供たちを教育し、外へ出しました。彼自身は日本語で教育を受け、その日本が負け、中華民国の接収と経済の崩壊と思想の統制を通り抜けた世代です。子に同じ目を見せないためには、次の言語圏へ送り出すしかなかったのだろうと思います。台湾を愛しながら、出ていかざるを得なかった——そう語られています。

だからこの家の行く末を、私は心配していません。血を引く男子がいなければ迎えればいい。そういう作り方をしてきた家です。現に私を案内してくださったのは、一族の方でした。

今日も洋楼は大切に守られ、訪れた人を、子孫が案内してくださいます。


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