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三国志 三国機密 伏寿の史実

霊帝崩御から洛陽帰還まで

189年)4月、霊帝崩御。劉弁即位。8月、何進と十常侍の争いによる朝廷の混乱に乗じ、董卓が雒陽(洛陽)に入城。劉弁を廃位し、劉協を皇帝に擁立する。

190年、董卓は遷都を命じ、長安に向かう

192年、4月、董卓、王允と呂布に暗殺される

以後関中は戦乱となり、献帝は各地を転々とする。

194年 献帝、元服

195年4月、貴人の伏氏を皇后とする

196年、7月、献帝、洛陽に帰還

東に向かう際、伏寿のお付きのものが殺され、持っていた絹織物は奪われ、伏寿の服にも血が飛び散る有様。

献帝らは、船に乗って黄河を渡った。その時、同じ船に乗っていたのは、伏寿と宮女が二人だけ、そして楊彪、傅完(伏寿の父)を含む数十人の人々だけであった。

皆の服はボロボロ。粟や棗を食べて飢えをしのぐ有様

洛陽から許へ

196年、曹操の庇護のもと、都を洛陽から許に遷す

しかし都を許にうつしたのち、曹操に同調しない者はほとんど殺された。

200年、董承らが曹操暗殺計画を企てたが失敗し、彼らとその一族も皆処刑された。献帝の子をみごもっていた董承の娘も処刑された

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伏寿はこの状況を目の当たりにし、父である傅完に手紙を書き、曹操を根絶やしにする計画を密かに立てるよう父に頼んだ。傅完はあえてそうしなかった。

214年)11月、伏寿の傅完への秘密の手紙がばれた。

曹操は激怒し、献帝に傅皇后を廃妃にするよう迫った。

そして逮捕された。伏寿の髪はみだれ、裸足であった。

泣きながら献帝の前を通り過ぎ、献帝の手を取って言った。

“もう一度私を救ってくれませんか?”献帝も泣いた。

“私の命もいつまで続くかわかりません!”と。

曹操は伏寿を宮殿の罪を犯した女官の部屋に入れ、215年1月、伏寿は殺された。

二人の息子は毒入りの酒で殺され、兄弟の一族百数十人は死刑にされた。

中傷の手紙くらいでなんで曹操怒る?

ある歴史家は、曹操の地位と覇気があれば、伏寿が父に中傷の手紙を送ったからといってここまで怒り狂って殺害することはないだろうと言っています。

事件の背後には別の理由があったに違いないと
その背後にある事柄は正史に記すには大きすぎると考えられたため、正史に記述されず闇に葬られたと
伏寿には、大局を危うくするほどの政治計画があった。

曹操は何とかしなければならないと考えて廃妃、一族もろとも殺害したのではないかと

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