醇親王家と粛親王家、正反対の運命を分けたもの
はじめに――「その後」の物語
これまで、恭親王家・醇親王家という、清朝の内側での皇族の生き方を見てきました。この記事では、時間軸をぐっと先まで伸ばします。**清朝も満洲国も滅びたあと、新しく生まれた中華人民共和国は、かつての皇族たちをどう扱ったのか。**
結論を先に言えば、同じ満洲族の名門皇族でありながら、**醇親王家と粛親王家は、正反対の運命をたどりました。**一方は「統合の象徴」として遇され、もう一方は「裏切り者」として長く排除された。その明暗を分けたものは何だったのか――ここには、新中国が「民族」と「歴史」をどう扱おうとしたかが、くっきりと表れています。
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前提①――「満洲族を排除するか、包み込むか」という問い
まず、時代の大きな背景を押さえておきます。
清朝を倒した革命運動には、もともと「滅満興漢(めつまんこうかん)」――満洲族を追い払い、漢族の国を取り戻す――という、強い排満(はいまん)の空気がありました。清朝は満洲族の王朝ですから、それを倒す以上、満洲族への敵意が革命の燃料になったのは自然なことです。
ところが、いざ王朝が倒れて新しい国を作る段になると、この排満論は大きな問題を抱えていました。**満洲族を排除すれば、モンゴル・チベット・新疆(しんきょう)といった、清朝の皇帝が束ねていた広大な地域が、「では我々も清朝と一緒に去る」と独立に向かってしまう**からです。実際、外モンゴルはこの理屈で独立に動きました(この経緯は、承徳・満蒙独立運動の記事で詳しく触れています)。
そこで浮上したのが「五族共和(ごぞくきょうわ)」という考え方です。漢・満・蒙・回・蔵(かん・まん・もう・かい・ぞう)の五民族が、平等に協力して一つの共和国を作る、という理念でした。
> **補足**――「五族共和」は、実はもともと革命派のスローガンではありませんでした。革命派の排満論に対抗して、立憲派が唱えた「五族不可分論」が起源です。辛亥革命後、各省の代表が中華民国の成立を話し合うなかで、統合の必要から公式スローガンに採用されました。孫文も1912年の臨時大総統就任宣言でこれを掲げましたが、その後は漢族中心の同化主義に傾いていきます。つまり「排除から統合へ」は、一直線の転換ではなく、排満と統合論がせめぎ合った末の、現実的な選択でした。
大事なのは、この「満洲族を排除せず、国家に包み込む」という発想が、王朝の滅亡から新中国の成立まで、形を変えながら受け継がれた、という点です。そして新中国も、この課題を引き継ぎました。**「かつての支配民族・満洲族を、新しい国にどう統合するか。」**その象徴として選ばれたのが、醇親王家だったのです。
> **紛らわしい用語の整理**――中華民国の「五族共和」(漢・満・蒙・回・蔵)と、のちに日本が満洲国で掲げた「五族協和(ごぞくきょうわ)」(日・漢・満・蒙・朝)は、字も構成する民族も違う別物です。溥儀が関わったのは後者の満洲国のほうでした。同じ読みなので混同されがちですが、まったく別の理念です。
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醇親王家――「統合の象徴」として遇された家
溥儀の、意外な後半生
醇親王家といえば、ラストエンペラー・溥儀(ふぎ)の家です。溥儀は、清朝最後の皇帝であると同時に、日本の関東軍が作った満洲国の皇帝でもありました。新中国から見れば、**「日本の侵略の象徴」**とも言える経歴です。普通に考えれば、最も厳しく処罰されてもおかしくない人物でした。
実際、溥儀は戦後ソ連に抑留されたのち中国に引き渡され、撫順(ぶじゅん)の戦犯管理所で、約9年にわたる思想改造(共産主義教育)を受けます。ここまでは「戦犯」としての扱いです。
ところが、その後の展開が意外でした。**1959年、溥儀は特赦によって釈放されます。**そして一市民として北京植物園の庭師などを務めたのち、全国政治協商会議(政協)の文史研究委員に就任。さらに1964年には、**満洲民族の代表**として政協全国委員に選ばれました。皇帝から、庶民を経て、「満洲族を代表する公人」へ。数奇な後半生です。
なぜ、溥儀は許されたのか
ここに、新中国の狙いが透けて見えます。**溥儀を処刑せず、思想改造を経て「新しい人間」に生まれ変わらせ、公民権を与えて満洲族の代表に据える。**これは、単なる温情ではありませんでした。
「かつての皇帝ですら、思想改造によって立派な社会主義の公民に生まれ変われる」――これは共産党の統治の正しさを示す、またとない宣伝材料でした。同時に、その元皇帝を満洲族の代表として遇することは、**「新中国は満洲族を排除せず、包み込む国だ」という、五族統合のメッセージ**そのものでもありました。溥儀という存在は、思想改造の成功例であると同時に、民族統合の象徴でもあったのです。
こうして醇親王家は、王朝の最期を背負わされた家でありながら、新しい時代には「統合の象徴」という役回りを与えられました。載灃(さいほう)の一族が政治から距離を置き、復辟運動のような反体制活動に深入りしなかったことも、この「扱いやすさ」を後押ししたと考えられます。
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粛親王家――「裏切り者」として排除された家
対照的な運命
醇親王家とは正反対の道をたどったのが、粛親王家です。この家は、新中国で復権の機会を、長く与えられませんでした。
理由は、はっきりしています。**日本との結びつきが、あまりにも深かったから**です。
粛親王家の当主・善耆(ぜんき)は、辛亥革命後、恭親王家の溥偉らとともに退位に反対し、日本の力を借りて清朝復辟・満蒙独立運動を推し進めた中心人物でした(この経緯は承徳・満蒙独立運動の記事の通りです)。そして善耆は、復辟の望みを子供たちに託し、38人にのぼる子女の多くを日本へ留学させました。一族を挙げて、日本と深く結びついたのです。
その象徴が、第十四王女――**川島芳子(かわしま・よしこ)**でした。日本人・川島浪速の養女となり、満洲事変から日中戦争にかけて日本軍に協力したとされる彼女は、戦後、**「漢奸(かんかん)」――民族の裏切り者**として裁かれ、1948年に銃殺刑に処されます。粛親王家の第七王子・金璧東(きんぺきとう)も、満洲国で新京市長などを務めました。一族が満洲国と深く関わっていたのです。
新中国から見れば、粛親王家は「日本の侵略に手を貸した一族」の代表でした。醇親王家が「統合の象徴」なら、粛親王家は「否定すべき過去」の象徴だった。そして文化大革命が終わるまで、一族は迫害を受け続けたと伝えられます。
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【私の見立て】明暗を分けたのは「日本との距離」だった
同じ満洲族の名門皇族が、なぜこれほど違う運命をたどったのか。私の見立てでは、明暗を分けた最大の要因は、**「日本との距離」**でした。
醇親王家の溥儀も、満洲国皇帝として日本に担がれた人物です。日本との関わりでいえば、決して「清い」経歴ではありません。それでも彼が許されたのは、①ソ連経由で身柄が中国に渡り、思想改造のプロセスに乗せられたこと、②「元皇帝すら生まれ変わる」という宣伝価値があったこと、そして③何より、**満洲族統合の象徴として「使える」存在だった**ことです。
一方、粛親王家は、川島芳子という「わかりやすい裏切り者の顔」を持ってしまっていました。日本軍への協力者として処刑された彼女の存在は、この一族を「統合の象徴」に転用することを、事実上不可能にしました。**溥儀は許すことで宣伝になり、粛親王家は否定することで宣伝になる。**新中国は、二つの皇族を、まったく逆向きの「教材」として使い分けたのだと思います。
ただし、ここで一つ、公平のために立ち止まりたいことがあります。
粛親王・善耆その人は、単純な反動でも、日本の手先でもありませんでした。彼は立憲君主制による近代化を目指した開明的な皇族で、革命派に対しても理解を示し、摂政王暗殺未遂で捕らえられた汪兆銘(おうちょうめい)の助命を嘆願したのも善耆だったと言われます。彼が日本に接近したのは、「清朝を保全して、ロシアの南下を防ぐ」という彼なりの国家戦略の帰結でした。**その戦略が結果的に日本の大陸進出と重なり、次の世代(芳子ら)が日本の軍事行動に巻き込まれていった。**善耆個人の開明性と、一族が背負わされた「漢奸の家」という烙印の間には、大きな距離があります。
歴史の評価は、後の時代の政治的な必要によって、大きく形を変えます。醇親王家の「統合の象徴」化も、粛親王家の「裏切り者」化も、その人物たちの実像そのものというより、**新中国が「そう使いたかった」という都合**を、色濃く反映しているように私には見えます。
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近年の変化――そして、残された非対称
時代が下ると、満洲族をめぐる空気も変わってきました。改革開放以降、少数民族への優遇政策もあって、自らの満洲族としての出自を公にし、誇りにできる人々が増えていきます。かつての皇族の子孫が、書家や画家として活躍する例も現れました(恭親王家の子孫がその一例です)。「満洲族であること」は、隠すべき過去から、一つのルーツへと変わっていったのです。
けれど、この「雪解け」は、すべての皇族に等しく訪れたわけではありませんでした。
醇親王家が早くに「統合の象徴」として遇されたのに対し、**粛親王家、とりわけ善耆と川島芳子については、国家レベルでの明確な名誉回復は、今なお行われていません。**川島芳子は、中国では基本的に「漢奸」「女スパイ」という否定的な評価のまま語られ続けています(なお、彼女の裁判については、スパイ活動の具体的証拠が乏しかったのではないか、という指摘も一部にありますが、公的な評価が覆るには至っていません)。
同じ満洲族の名門でありながら、一方は統合の象徴となり、一方は否定の象徴のまま残された。**この非対称は、王朝が滅びて100年以上たった今も、完全には解消されていない**のです。
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おわりに――「勝者が書く歴史」の、生きた実例
醇親王家と粛親王家の運命の対比は、「歴史は勝者が書く」という古い言葉の、生きた実例のように見えます。
同じ王朝から生まれ、同じように日本と関わり、同じように激動に翻弄された二つの家。その明暗を最終的に分けたのは、家そのものの善悪というより、**新しい国家が、それぞれの家を「どう使いたかったか」**でした。許すことに意味がある家は許され、否定することに意味がある家は否定された。
そして、この物語は松本にもつながっています。川島芳子は、松本で育ち、松本の川島家の墓に眠っています。中国で「漢奸」と呼ばれ続ける彼女が、日本の一地方都市に静かに葬られているという事実そのものが、一人の人間が二つの国の歴史の狭間に落ち込んでしまったことを、物語っているように思います。
歴史上の評価を受け取るとき、「それは誰が、何のために下した評価なのか」と一歩引いて考えてみる。醇親王家と粛親王家の対比は、その大切さを教えてくれる、格好の教材だと思います。
*(関連記事
もしも清朝が承徳へ逃げていたら=満蒙独立運動・宗社党の記事
/川島芳子と松本の記事/
溥儀・満洲国の記事/
恭親王家三代の記事/
醇親王家の記事)*
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