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如懿とは誰だったのか──ドラマの「如懿」「嫻妃」と、史実の継皇后ナラ氏

『甄嬛伝』『エイラク(延禧攻略)』『如懿伝』。清朝の後宮を舞台にした人気ドラマを続けて見ていると、あるひとりの女性の像がだんだん溶け合って、頭の中がごちゃごちゃになってきます。

あるドラマでは陰謀をめぐらす敵役。別のドラマでは終始まっすぐな悲劇のヒロイン。ところがこの二人、**実は同じ一人の実在人物**なのです。

今回は、この混乱をいったんきれいにほどいてみます。**「史実の彼女」と「ドラマが創作した彼女」を分けて**並べ、そのうえで最後に、私なりの見立てを書きます。

 まず結論:三つの名は、同じ一人の女性

先に地図を広げておきます。混乱の正体は、次の三つが全部**同一人物**だということです。

| 呼び名 | 出どころ | どんな女性として描かれるか |
|—|—|—|
| 継皇后ナラ氏 | 史実 | 清朝で唯一、諡号(おくりな)を持たない皇后 |
| 如懿(演:周迅) | 『如懿伝』 | 夫の心変わりに苦しみ抜く悲劇のヒロイン |
| 嫻妃・淑慎(演:佘詩曼) | 『エイラク(延禧攻略)』 | 善良だったのに途中で「黒化」する敵役 |

「如懿」も「嫻妃」も、指しているのは乾隆帝の二番目の皇后、**継皇后ナラ氏**ただ一人。名前が三つに割れているせいで、私たちは三人の別々の女性のように感じてしまうのですね。

まずは史実の彼女から見ていきましょう。

【史実】継皇后ナラ氏の生涯

 名前からしてはっきりしない人

彼女の不思議さは、姓からもう始まっています。

『清史稿』には**烏拉那拉(ウラナラ)氏**と書かれていますが、近年は**輝発那拉(ホイファナラ)氏**だとする説が有力になっています。史料に「那拉(ナラ)氏」とだけ書かれることが多く、それが混乱のもとになったようです。満洲鑲藍旗(じょうらんき)の出身、父は訥爾布(ネルブ)といいました。

姓すら揺れている——生前の記録が意図的に薄められた人物であることが、こんなところにも表れています。

皇后になったのは、乾隆帝の意志ではなかった

1718年(康熙57年)生まれ。乾隆帝より七つ年下です。雍正11年(1733年)、まだ皇子だった弘暦(後の乾隆帝)に側室として嫁ぎました。

その後、嫻妃(かんひ)、嫻貴妃と位を上げていきますが、転機は乾隆13年(1748年)。最初の皇后である孝賢純皇后・富察氏が亡くなると皇貴妃となり、乾隆15年(1750年)についに皇后の座に就きます。

ここで大事なのは、**この立后が乾隆帝自身の望みではなかった**ことです。史料からは、乾隆帝の母である崇慶皇太后の強い意向で決まったことがうかがえます。夫が心から選んだ妻ではなかった——のちの悲劇の伏線が、始まりの時点で置かれていたわけです。

とはいえ、その後の十数年は決して不仲ではありませんでした。南巡(江南への行幸)、盛京への祖先祭祀、木蘭での秋の狩り。乾隆帝は皇后をどこへでも伴い、二人のあいだには三人の子も生まれています。少なくとも表向きは、円満な夫婦だった時期が長く続いたのです。

 三人の子どもたち

その三人の運命は、しかし過酷でした。

**皇十二子・永璂(えいき)** ── 1752年生。皇后の長男で、生まれた時は乾隆帝も喜びの詩を詠んだほどでした。乾隆36年(1771年)には『御製満蒙文鑑』(満洲語・モンゴル語の辞典)総綱の編纂を任され、乾隆40年(1775年)に完成させて、父帝からある程度の評価も受けています。

けれども彼の本当の不遇は別のところにありました。母が失脚したのち、**永璂は生涯、親王にも郡王にもなれなかった**のです。皇后の実子でありながら、位を一切与えられないまま1776年、24歳の若さで世を去りました。貝勒(ベイレ)の位が贈られたのは、彼の死からずっと後、異母弟の嘉慶帝の代になってからでした。

**皇五女** ── 幼くして亡くなっています。母がまだ皇后の座にあり、下の弟を身ごもっていた頃のことでした。

**皇十三子・永璟(えいえい)** ── 1755年頃に生まれ、わずか2歳で病死。母は最期に立ち会うことすらできませんでした。

 断髪事件 ── 何が起きたのか

そして1765年(乾隆30年)、あの事件が起きます。

乾隆帝の四度目の南巡に同行していた皇后が、旅の途中で突然、帝の怒りを買いました。皇后は行列から切り離され、ひとり先に北京へ送り返されます。護衛についたのは、皇女の婿にあたる福隆安。廃后の正式な詔書こそ出されませんでしたが、**事実上、皇后位を追われた**のです。

なぜ帝が激怒したのか、決定的な記録は残っていません。ただ、有力な民間伝承がひとつあります。南巡の先で乾隆帝が江南の女性を新たに妃に迎えようとし、それに皇后が反対して、抗議のしるしに**自ら髪を切った**というものです。

この「断髪」が、なぜそれほど重い意味を持ったのか。満洲の習俗では、女性が髪を切るのは**皇帝や皇太后が亡くなったとき**の喪の作法でした。生きている帝と皇太后の目の前で髪を切ることは、二人に「死」を突きつける呪詛、この上ない侮辱と受け取られたのです。乾隆帝は後に皇后を「振る舞いが道理に反し、狂乱のようだ」と評しています。

なお、朝鮮通信使の記録『熱河日記』には別の一説もあります。**容妃(回妃)が「皇后が帝の東珠を盗んだ」と告発し、東珠が役人の家から見つかって皇后が幽閉された**、という筋書きです。ドラマの「東珠盗難事件」はこの説をふくらませたものですが、清朝の正史には確証がなく、あくまで異説として扱うのが妥当でしょう。

 死後 ── 歴史から消された皇后

北京に戻された皇后は翊坤宮の奥に幽閉され、翌1766年(乾隆31年)、失意のうちに亡くなりました。

葬儀は皇后ではなく**皇貴妃の格式**で執り行われ、乾隆帝の陵墓には葬られず、純恵皇貴妃の園寝に**附葬**されました。そして**諡号も贈られなかった**。清朝の歴代皇后のなかで、諡号を持たないのは彼女ただ一人です。肖像画をはじめ、彼女の痕跡は記録から静かに外されていきました。

乾隆帝は、この妻を歴史から消そうとしたのです。

【創作】ドラマが描いた「如懿」と「嫻妃」

ここからは、史実の彼女に後世が着せた「衣装」の話です。

『如懿伝』── 名前が主題そのもの

『如懿伝』のヒロインは、はじめ「青櫻(せいおう)」という名で登場します。物語の序盤、皇太后となった甄嬛から新しい名を賜り、「如懿」と生まれ変わる。この改名こそ、ドラマ全体を貫く仕掛けになっています。

劇中で太后が語る「懿」の由来は、『後漢書』の一節「林慮の懿徳、礼に非ざれば処らず(静かで美しい徳の持ち主は、礼にかなわぬ場に身を置かない)」。つまり「懿」は、**静かで気高い美徳**を意味します。

そして「如」は「〜に似ている、〜のよう」。二つ合わせてファンのあいだで語り継がれる解釈が

> **「美好の如し、されど美好そのものにあらず」**
> (美徳に“似ている”けれど、美徳“そのもの”ではない)

彼女は最後まで、理想の妻に“似た”存在ではあっても、乾隆帝にとって理想“そのもの”にはなれなかった。名前が、彼女の一生を先取りしていたわけです。

 

『エイラク(延禧攻略)』── 真逆の顔

同じ実在人物が、こちらでは**嫻妃・淑慎**として登場します。演じるのは佘詩曼(カーメイン・シェー)。

面白いのは、その造形が『如懿伝』と正反対なこと。前半こそ善良な妃ですが、後半で「黒化」し、主人公と対立する敵役へと変わっていきます。『如懿伝』が「まっすぐな悲劇のヒロイン」として描いた同じ女性を、『エイラク』は「堕ちていく悪女」として描いたのです。

「どこまでが創作か」の目印

ドラマならではの脚色を、いくつか目印として挙げておきます。

– **東珠盗難を香妃(容妃)が仕組む** … 史実は前述の『熱河日記』の異説どまり。
– **永璂が編纂事業を叱責され断念させられる** … 史実では『御製満蒙文鑑』を完成させ、評価も受けている。

– **叔母が『甄嬛伝』の廃后・宜修** … これは『如懿伝』が前作とつなぐための設定で、史実の系図とは別物。

【私の見立て】同じ女が、悪女にも聖女にもなる

さて、ここからは私の見立てです。

一番心に残るのは、**同じ一人の実在の女性が、あるドラマでは悪女、別のドラマでは聖女として描かれる**という事実です。史実の記録がわずかしか残らず、しかも意図的に薄められた人物だからこそ、後世は好きなように物語を着せられる。これはまさに「歴史は、それを語る者がつくる」ということの、生きた見本ではないでしょうか。

私が暮らしていた長岡は、かつて戊辰戦争で「負けた側」だった土地です。勝者が歴史を書く、という言葉を、私は理屈ではなく肌で知っているつもりです。継皇后ナラ氏の物語は、その縮図のように見えます。乾隆帝が痕跡を消そうと躍起になったからこそ、かえってこの悲劇は後世の注目を集めた──皮肉なことです。

もうひとつ。**断髪という行為**について。満洲の習俗では最大級のタブーだと、彼女は当然わかっていたはずです。それを承知のうえで髪を切ったのだとしたら、あれは衝動ではなく、**最後に残された尊厳を賭けた抵抗**だったのではないか。多くの研究者が近年、この事件を「皇帝権力の下に置かれた女性の抵抗の象徴」として位置づけていますが、私もその読みに惹かれます。

> **【私の見立て】** ひょっとすると彼女は、かなり現代に近い感覚の持ち主だったのかもしれません。当時の宮廷にはヨーロッパから宣教師が出入りしていましたから、近代的なものの考え方が彼女に触れていた可能性も、まったくないとは言えない。あくまで私の空想ですが、そう思うと「一人の対等な相手として愛されたい」という願いが、時代を先取りしていたようにも見えてくるのです。

最後に、名前の遊びをひとつ。

『如懿伝』ファンのあいだでは、「懿」の字を「壹・欠・心」に分けて**「一次(いちど)の心」**と読み、乾隆帝の愛は「生涯に一度だけ心が動く(=一時の情熱)」、如懿の愛は「生涯を通じて一度の心を貫く(=終生の絆)」という対比だ、と読み解く見立てがあります。

  • 「壹」: 献身を表し、音から「一」も連想される
  • 「欠」: 感嘆や賞賛すべきという意味を持ち、「次」も連想される
  • 「心」: 内面的な美しさや徳、感動や心の動きを現す

これはドラマ本編で太后が語る由来(先の『後漢書』)ではなく、あくまでファンの考察ですが、二人の結婚観のすれ違いを見事に言い当てていて、私はこの読みが好きです。

そういえば劇中、改名の前に乾隆帝は青櫻へ「牆頭馬上(しょうとうばじょう)」の楽譜を渡しています。一目惚れを歌ったロマンチックな一場面に見えますが、出典の白居易『井底引銀瓶』は、実は**駆け落ちの末に捨てられ、後悔する女性を戒めた詩**なのです。甘い贈り物のふりをして、如懿の結末をこっそり予告している──脚本のこういう仕掛けに気づくと、もう一度見返したくなりますね。

継皇后ナラ氏は、諡号も肖像も奪われ、歴史から消されかけた皇后でした。けれど今、私たちは三つのドラマを通して、彼女のことをむしろ深く語り続けている。消そうとした乾隆帝の思惑は、二百年越しに裏切られたのかもしれません。

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