建武二年(一三三五)、信濃の諏訪から一人の少年が担ぎ出されました。北条高時の遺児、北条時行。担いだのは、諏訪大社上社大祝家の当主・諏訪頼重(法名・照雲)と、その子・時継です。
中先代の乱と呼ばれるこの挙兵は、足利直義を破って一時は鎌倉を奪回するところまでいきました。しかし尊氏の反撃に遭い、頼重らは鎌倉の大御堂で自害します。鎌倉を押さえていたのは、二十日あまりでした。
なぜ、神職が。しかも滅んだばかりの家の遺児を、命がけで。
その答えは、諏訪頼重という人が「ただの神主ではなかった」という一点にあります。
「我に体なし、祝を以て体とす」
諏訪頼重は、諏訪大社上社の大祝(おおほうり/おおはふり)でした。
大祝は、神職の最高位というだけではありません。諏訪明神がその身体に宿った、現人神(あらひとがみ)そのものとされた存在です。
上社大祝は建御名方神の後裔を称する諏方(すわ)氏が世襲し、中世以前は「神(みわ/ごう)氏」を名乗りました。
『諏方大明神画詞』(延文元年・一三五六)に伝わる託宣に、こうあります。
我に体なし、祝を以て体とす
——私には身体がない。祝を身体とせよ。
上社本宮には本殿がありません。拝殿の奥にあるのは守屋山を含む山そのもの、あるいは幣拝殿の背後の空間で、社殿に納められた御神体というものが存在しないのです。
その代わりが、生きた人間でした。
八歳の男児に神の装束を着せる。その瞬間、神格がその身体に移る。神長官守矢氏がミシャグジを降ろすことで、少年は神体になる。ただし具体的な作法は一子相伝の秘事で、今日わかっていません。
神を作れるのは、負けた神の子孫だけだった
大祝は神そのものでしたが、実際に神事を取り仕切ったのは、神長(神長官)守矢氏を筆頭とする五官祝でした。
守矢氏は、諏訪に元からいた土着の神・洩矢神(もりやのかみ)の子孫を称する一族です。
つまり——建御名方に「負けた側」の神の裔が、勝った側の神の身体を作る儀式を独占していた。
即位式でミシャグジを少年の身体に降ろすことで、大祝は神になる。その作法を持っているのは守矢氏だけ。神を作れるのは負けた神の家だけ、という構造が、明治まで千数百年続きました。
私はこの一点に、諏訪信仰の凄みがあると思っています。
諏訪明神とは誰か──糸魚川から諏訪湖へ
諏訪明神は建御名方神です。父は大国主命。
母は沼河比売(奴奈川姫)——今の糸魚川の女神とされます。
(※『古事記』は大国主が沼河比売に求婚した話と、建御名方が大国主の子であることを別々に記しており、両者を母子として結ぶのは『先代旧事本紀』以降の伝えです。地元ではごく当たり前に語られていますが、記紀に直接そう書いてあるわけではありません。)
諏訪明神は、私のホームタウンのすぐ近所にお住まいの神さまです。ですので、『古事記』に書かれていない、私が聞いて育った伝えのほうも書いておきます。
——今の糸魚川に、美しい姫君がいた。その噂を聞きつけて、はるばる出雲から大国主命がやってきて、ふたりは結ばれ、建御名方神が産まれた。
糸魚川は美しい翡翠の産地で、出雲との交易がありました。だからこういう話が伝わったのだと思います。
『古事記』によれば、国譲りの場面で建御名方神は建御雷神と力比べをして敗れ、逃げに逃げて信濃の諏訪湖で追いつめられます。そして「この地から出ない」と誓って命を助けられました。
『古事記』にこのとき柱の話は出てきません。けれども私の聞いた話では、逃げてきた神はついに諏訪湖のほとりで観念し、四本の柱を立てて「ここから出ません」と誓って命を助けられたそうです。
現在の御柱祭で立てられるのは、上社本宮・前宮・下社春宮・秋宮それぞれの社殿を囲む四隅の柱(一之御柱〜四之御柱)です。この「四本で囲む」形は、結界・聖域の境界として説明されています。
糸魚川から諏訪湖までは、古来より塩の運ばれたルートでした。だからこの話ができたのだと思います。
鉄と藤──天竜川のほとりの戦い
諏訪側の伝承では、外から来た神と土着の洩矢神が天竜川で戦います。
ここで面白いのは、武器の組み合わせが直感と逆だということです。
『諏方大明神画詞』によれば、洩矢神が鉄の輪(鉄輪)を執り、建御名方神(明神)が藤の枝を執って争い、洩矢神が敗れた。
出雲は鉄の産地です。外から来た神のほうが鉄を持っていそうなものですが、伝承では逆です。鉄を手にした土着の神が、藤蔓の神に屈する。
明神が誓いを立てて投げた藤の枝はたちまち根づいて枝葉を茂らせ、戦場のしるしとなった——これが藤島明神の由来だと語られます。現在も天竜川を挟んで、岡谷市に藤島神社と洩矢神社が向かい合っています。
〈さとえの見立て〉 なぜ鉄が負ける話になっているのか。私は、これは「鉄器を持つ強い者が勝った」という素朴な征服譚ではなく、負けた側の家がずっと語り継いできた話だからだと思います。負けたけれど、我々は鉄を持っていた。そして負けたのちも、神を作る手だけは手放さなかった。敗者の側に残された誇りの置きどころが、この武器の配置に出ている気がします。
敗れた神が、土地の神を呑み込む
ここで一度まとめます。
建御名方=中央で敗れて逃げてきた神が、諏訪に来て土着の神を負かす。
そして諏訪在地の信仰——水と狩猟と農耕の神——を、そのまま呑み込みます。
御頭祭では鹿七十五頭の頭を並べ、鹿肉食を認める。仏教が殺生を戒めるなかで、諏訪社は鹿食免(かじきめん)を発行し、肉を食うことを赦しました。
敗者が敗者を負かして、敗者の作法ごと引き受けた神。これが諏訪明神です。
なぜ武士は諏訪明神を必要としたのか
中世以降、諏訪信仰は全国的な軍神信仰になっていきます。ここで八幡神と比べると、役割の違いがはっきりします。
八幡神は源氏の氏神です。 応神天皇=皇祖神系につながり、清和源氏が「天皇の血を引く武家の棟梁」であることを保証する神。鶴岡八幡宮が幕府の中心に据えられたのは、それが正統性の証明装置だからです。誰が上に立つ資格を持つか——血統・家格・正統性。棟梁が拝む神であり、幕府の公的祭祀の中心でした。
諏訪明神が引き受けたのは、戦う現場と、殺生という業のほうです。
武士である以上、戦って人を殺さなくてはなりません。殺生が悪だと言われても、山の中で生きていくには狩りをして肉を食らわなくてはなりません。
狩りの技を磨くこと、武芸の腕を磨くこと。獲物を殺し、敵を殺すこと。それを赦してくれる神。
血統の保証ではなく、武士としての職能の神です。殺生を業とする者を赦し、狩りの場で結束させる神。
御射山祭は、東国武士が集まる狩猟と武芸の場でした。流鏑馬、狩り、供犠。武士の身体感覚そのままの祭祀です。伊勢や賀茂の雅な祭礼とは、質が違う。流鏑馬は現代でも奉納されています。
北条得宗家と、神の身体を持つ家
諏訪氏は北条得宗家の御内人(みうちびと)でした。
源氏将軍は実朝暗殺で三代で絶えますが、幕府は摂家将軍・親王将軍を京から迎え続けます。将軍という器は残し、その正統性の装置として鶴岡八幡宮も維持される。北条は執権として、その体制を運営する側に立ちました。
だから北条にとって必要だったのは、将軍に代わる正統性の神ではなく、自分たちの家の結束と加護を担う神でした。
得宗専制を支えたのは、御家人という公的な主従関係ではなく、得宗家個人に直属する私的なネットワークです。そこに、神事の権威を持つ家が入る。しかもただの被官ではない、神を身体として持つ家が。
鎌倉に諏訪社が勧請され、幕府の年中行事にも諏訪の神事が組み込まれました。北条氏は諏訪氏を、相当に大切に扱ったはずです。
だから、諏訪頼重は動いた
こう並べてみると、頼重の行動が見えてきます。
彼は現人神の家の当主であり、得宗家の御内人であり、諏訪神党の盟主でした。北条得宗家との結びつきは、主従というより、家と家がひとつの信仰共同体を成しているような関係です。
そして、大祝が匿うということには実効性がありました。諏訪明神を信じる周辺の豪族が、大祝の庇護する子どもに手を出せるはずがない。信仰そのものが、隠れ蓑であり、盾でした。
信濃は山深く、追手も容易には入れません。
全てをかけて北条の遺児をかくまい、鎌倉奪還に動いたのは、無謀な忠義というより、この家がそう出来ていたからだと私は思います。
明治四年──神の身体が消えた日
その後のことを書かなければなりません。
明治四年(一八七一)、社家の世襲が全国一律で廃止されました。
伊勢の社家は神職の地位を失いましたが、御神体も社殿も祭祀も残りました。
諏訪は違います。神体そのものが人間でした。
大祝職が廃されるということは、神の身体が消えるということです。
代替がききません。他の神社なら、制度が変わっても神は社殿にいる。諏訪では、神を宿す器を作る制度が禁じられた時点で、その形の信仰が終わります。
しかも神長官守矢氏も、同時に職を失っています。
神を降ろせる唯一の家と、神を宿す唯一の家が、同じ年に一緒に消えた。 千数百年続いた対の構造が、一枚の布告で解体されました。
一子相伝の秘伝は、ほとんどが伝えられないまま途絶えました。最後の神長官となった守矢家七十六代・実久氏を最後に、完全な形での継承は終わっています。現在の当主・守矢早苗さんも、秘伝は受けていないといいます。大祝家のほうも、二〇〇〇年代に入って後継者なく絶えました。
神長官守矢史料館が茅野市にあるので、行こうと思っています。しかし、秘伝の部分の文章はないそうです。神とともに、永遠に葬られてしまいました。
〈さとえの見立て〉 国家神道の体系に、生き神という形式はまずかったのだと思います。天皇が唯一の現人神である体系のなかで、地方に別の現人神がいる状態は、置き場所がない。
『古事記』のなかで「ここから出ないから私の命を取らないで」と言った神が、千年以上その約束を守り続けたのに、最後は近代国家によって、体ごと取り上げられてしまったのです。
戦後、神田明神の平将門のように、国家によって社から外された神が戻れた例はあります。しかし諏訪明神は、体がない。戻れません。
御神渡り
諏訪湖は冬になると凍結して、氷が盛り上がって破れます。そのとき、どすん、どすん、と音がします。
私は小さい頃、神様が諏訪湖をお渡りになったと聞きました。
今では科学の発達とやらで解明されてしまい、神様はいなくなってしまいました。
参考にした主なもの
- 『諏方大明神画詞』(諏訪円忠、延文元年/一三五六)
- 『古事記』国譲り条
- 『諏訪信重解状』
- 諏訪市・茅野市の各資料、神長官守矢史料館の解説
- 鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)



