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小笠原貞宗は何者か ——『逃げ上手の若君』の弓の名手と、松本に残らなかったもの

漫画『逃げ上手の若君』で、北条時行の前に立ちはだかる信濃守護・小笠原貞宗。冷徹で、弓の腕は超人的で、しかもどこか変わっている。あの造形はもちろん創作ですが、実在の貞宗もまた、かなり複雑な人でした。

裏切り、守護、そして礼法の祖。この人を追いかけていくと、話は思いがけないところまで転がっていきます。松本の田んぼの中の史跡から、現代の鶴岡八幡宮の流鏑馬まで。


甲斐から来た一族

小笠原氏はもともと甲斐源氏です。甲斐国巨摩郡小笠原、今の山梨県南アルプス市を名字の地とする一族でした。

初代とされる小笠原長清は、源頼朝から「糾法(きゅうほう)」——弓術・馬術・礼法の三つをまとめた武家の作法——の師範に任じられます。1187年、鶴岡八幡宮の流鏑馬で射手を務めたとされる人物です。

この「頼朝の師範」という出発点が、のちのちまで効いてきます。

北条から一字をもらった男

貞宗は正応5年(1292年)生まれ。名前の「貞」は、鎌倉幕府9代執権・北条貞時からの偏諱とされます。

つまり彼は、生まれながらに幕府の側の人でした。

元弘の乱では幕府方として討幕運動の鎮圧にあたり、楠木正成の籠もる赤坂城を攻めています。このとき同じく幕府方として戦っていたのが、新田義貞でした。のちに鎌倉を滅ぼすことになる二人が、この時点では並んで幕府のために戦っている。

ところが元弘3年(1333年)、足利高氏(のちの尊氏)の離反に呼応して、貞宗も寝返ります。そして新田義貞の鎌倉攻めに加わりました。

北条から一字をもらった男が、北条を滅ぼす側に回ったわけです。

信濃守護へ

鎌倉攻めの勲功により、貞宗は信濃守護に補任されます。任じたのは足利尊氏ではなく、建武の新政を始めた後醍醐天皇の政権です(時期は建武元年とも建武2年ともされます)。尊氏の麾下に本格的に入るのは、その後、尊氏が後醍醐から離反してからのことになります。

ここでひとつ、通説が揺れている点があります。

系図類には「貞宗は信濃国松尾(現・飯田市)に生まれ、そこを本拠としていた」と書かれています。しかし飯田市の文化財解説によれば、鎌倉時代の信濃守護も伊賀良荘の地頭も北条氏であり、小笠原氏はむしろ阿波国の守護でした。小笠原氏が信濃に土着するのは、貞宗が信濃守護に任じられた建武2年(1335年)以降というのが近年の見方です。伊賀良荘は、幕府滅亡後の恩賞として与えられたと考えられています。

さらに『長野市誌』は、南北朝前半の信濃守護所は埴科郡船山郷(現・千曲市周辺)に置かれていたとします。ここも、鎌倉末期に北条氏が地頭職を持っていた土地でした。

「もともと飯田にいた土着の武士」ではなく、「北条の跡地に、外から入ってきた新任の守護」。そう考えたほうが、その後の信濃の荒れ方は理解しやすくなります。

守護と国司 ——二つの権力が重なっていた

ここで用語の整理をしておきます。

  • 守護……幕府(武家)が任命する、軍事・警察の長。信濃守護が小笠原貞宗。
  • 国司/国守……朝廷が任命する行政長官。役所は国衙(こくが)。

南北朝期には、まだ国衙の権力——国司を中心とする行政組織——が実体として残っていました。守護は、それを潰すか、吸収するかしなければならない。武家の長と朝廷の長が、同じ国の中に二重に立っている状態です。

信濃の場合、国衙は府中(現・松本市)にありました。

中先代の乱 ——足元から火が出る

信濃はもともと、北条得宗家の牙城だった国です。

そこへ、北条から一字をもらった元・北条方の武将が、恩を受けていながら裏切った挙句、新政権の後ろ盾を得て守護として入ってくる。

当然、あちこちで北条方の反乱が起きました。貞宗はその鎮圧に手を焼き続けます。そして極まった形が、建武2年(1335年)の中先代の乱でした。

北条時行の軍勢は守護所と国衙を襲撃し、国司の信濃守・清原某を討ち取ります。貞宗は埴科郡青沼で時行軍と戦って敗北し、時行の鎌倉進軍を阻止できませんでした。

乱の鎮圧後、貞宗は焼けた国衙に代わって後醍醐天皇が任命した後任の国司・堀川光継を、筑摩郡浅間宿に出迎えています。

建武2年に安曇郡住吉荘を与えられるなど、貞宗は次第に筑摩・安曇に足がかりを築いていきました。そして1340年頃、国府に対抗して守護の基盤を固めるため、松尾(飯田)から府中(松本)に進出し、井川城(松本市井川城)を築いたとされます。

礼法の祖として

貞宗にはもうひとつの顔があります。

小笠原流礼法の根幹をなす『修身論』『体用論』は、貞宗と一族の常興の代に完成したと伝えられます。『修身論』は心の教え、『体用論』は体の教え。後醍醐天皇に献上され、高く評価されたといいます。

弓の名手であり、作法の体系をつくった人。『逃げ上手の若君』の造形にも、この二面性は生きています。


その後の小笠原家 ——百年後の再建

それから百年後、永享11年(1439年)、小笠原氏は国府八幡宮=筑摩神社の本殿を再建します。

国府に対抗して入ってきた一族が、やがて国府の名を冠した神社の再建をするようになった。

つまり、この地方の領主という権力者になりきったということです。

天文19年、武田が来る

ところが天文19年(1550年)、武田信玄が松本平に侵攻し、小笠原氏は駆逐されます。

信玄は深志城だけを残し、他の城はすべて破壊しました。

小笠原の三つの拠点——井川城、林城、深志城——のうち、いちばん格下の支城だけが生き延びたのです。

そして現在。

  • 守護所だった井川城は、田んぼの中の史跡。
  • 本城だった林城は、山中の遺構。
  • 支城だった深志城は、天守が残り、国宝松本城として松本市の観光の中心になっています。

永禄5年(1562年)——技を残せ

小笠原家は代々、惣領家が糾法(弓馬の法)と礼法全般を取りしきってきました。

ところが惣領家17代・長時の代、武田信玄との戦いに追い詰められます。

家は滅ぶかもしれない。だが弓馬礼法の伝統は残さなくてはならない。

永禄5年(1562年)11月、長時とその子・貞慶は、一族筋にあたる赤沢経直(清経家17代、のちの小笠原貞経)に、糾法の的伝と系図と記録を携えさせ、宗家の道統を託しました。

道統とは、弓・馬・礼の三法の総取り仕切り役の正統継承を意味します。

このとき、惣領家と弓馬礼法の家が分離しました。

領地でも城でもなく、技と記録だけを持たせて逃がしたわけです。


弓馬礼法の家 ——鶴岡八幡宮へ続く

赤沢経直はその後、徳川家康に招かれて小笠原姓に復し、徳川秀忠の弓馬術礼法師範となります。禄は500石。

この家系(小笠原平兵衛家)は歴代将軍に仕え、将軍家子女の婚礼や元服の儀式に与り、幕末の御維新まで幕府の高家としてその職を務めました。

流鏑馬は鉄砲の伝来とともに一度衰退します。しかし享保9年(1724年)、8代将軍・徳川吉宗が復興を命じ、20代当主に預けられました。以後、代々騎射師範として門弟を指揮し、高田馬場などで行われるようになります。

そして明治以降も継承されました。

現在は小笠原清忠氏が弓馬術礼法小笠原教場の31世宗家。1943年生まれ、1994年襲名です。鎌倉・鶴岡八幡宮で毎年9月16日に行われる流鏑馬神事で見られるのが、この家の技です。

小笠原貞宗の作法が、今も鶴岡八幡宮を走っている。そう思うと、感慨深いものがあります。

惣領家 ——九州へ

一方、惣領家(大名としての小笠原)は、江戸時代に豊前小倉、肥前唐津、越前勝山などの城主として明治を迎えます。九州で幕末まで続いたわけです。

松本を追われた家が、九州で大名として生き残った。

家訓 ——「家業を生業にせず」

弓馬礼法の家には、「流儀を教えることで生計を立ててはならない」という家訓があります。

31世清忠氏は慶應義塾大学を出て、2001年まで政府系金融機関に勤務されていました。休日に道場で門下生と稽古を重ねてこられたそうです。

嫡男の清基氏は1980年生まれ。3歳で稽古を始め、小学5年で鶴岡八幡宮の射手を務めました。大阪大学から筑波大学大学院に進んで神経科学の博士号を取得し、現在は製薬会社の研究員です。

技で食べないから、技が濁らない。

800年以上、この家訓が守られています。


【さとえの見立て】

貞宗という人を、私は「勝った側の人」として読んでいました。北条を裏切り、足利の側について、守護になった人。『逃げ上手の若君』でも、彼は時行を追う側です。

でも百年後、その小笠原家自身が武田に追われる側になりました。

そして面白いのは、そのとき何が残されたかです。

領地は取られました。城は壊されました。本城の林城は山の中の遺構になり、守護所の井川城は田んぼの中の史跡になりました。生き残ったのは、一番格下の支城です。それが今、国宝松本城として松本の顔になっている。歴史の残り方というのは、本当に予測がつきません。

長時が託したのは、家でも領地でもなく、的伝と系図と記録でした。土地は奪えるが、作法は奪えない。そう判断した人がいたということです。

そして実際、それは残りました。四百六十年後の鶴岡八幡宮を、その技が走っています。

「歴史は勝者が書く」というのが私のいつものテーマですが、この件に関しては少し違うことを考えました。書かれる歴史ではなく、身体に載せて運ぶ歴史というものがある。文書は焼けますが、稽古は焼けません。

そしておそらく、「家業を生業にせず」という家訓こそが、それを可能にしてきたのだと思います。食うために教えれば、教える相手に合わせて技が緩む。緩まないために、外で働く。31世が金融機関に勤め、32世が製薬会社の研究員である理由が、ここにあります。

松本を追われた敗者の家が、いま日本で最も格式ある弓馬の技を保っている。

負けた側が何を持って逃げたか。そこにその一族の本当の価値観が出るのだと、私は思います。

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