甲府の信玄公祭りで、信玄公役の人がステージから叫びます。
「御旗楯無も御照覧あれ」
観客が呼応して繰り返す。盃が割られる。武田二十四将が兜を被り、家来を連れて城の上から降りてくる。庭園のステージで一人ずつ紹介され、そのあと馬に乗って甲府の町を行進する。町中の人が通りに出て、歓声をあげながら手を振る。
この祭りは1970年代に始まった新しい行事で、その意味では「伝統」ではありません。それなのに私は、そこで四百五十年前の装置がまだ動いているのを見てしまいました。
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御旗楯無とは何か
【史実】まず前提を整理します。
御旗――日の丸の御旗。後冷泉天皇が前九年の役に際して源頼義に下賜したと伝わる日章旗で、新羅三郎義光を経て甲斐武田家に伝来したとされます。現在は甲州市塩山の雲峰寺が所蔵。現存する日章旗としては最古級とされます。
楯無――正式名称は「小桜韋威鎧兜大袖付(こざくらがわおどしよろい・かぶと・おおそでつき)」。国宝で、甲州市の菅田天神社が所蔵しています。源義光所用と伝わり、「楯を必要としないほど堅固」だからこの号だと説明されます。信玄は鬼門鎮護のため、甲府から北東の於曽郷にあたる菅田天神社に納め、一族の於曽氏が管理して必要に応じて持ち出したといいます。
この二つが、甲斐源氏の家督継承の証でした。家督を継ぐ者がこの二品を継ぐ。物と地位が一体になっている。
そして評定の場で、当主が最終決断を下すときの宣言句が――
御旗楯無も御照覧あれ
この二品の前で誓った以上、以後の異議は許されない。そういう重みを持つ言葉でした。
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誓いの「装置」として
【さとえの見立て】私はこれを、神仏に誓うのと同じ形式で、家宝を証人に立てた装置だと読んでいます。
御旗楯無=証人。誓いを見届ける者。
誓約は、破ったときの制裁が届く場でしか機能しません。ここでの制裁とは、神罰への恐れであり、それ以上に「約束を破った者」という評判が家中で通用しなくなることです。武田家が続いている限り、背いた者は家中に居場所を失う。だから拘束力があった。
裏を返せば――御旗楯無は、それ自体が力を持つ物ではなく、共同体が存続するという見込みに依存した装置でした。共同体が終われば、装置も終わる。物は無傷のまま、効力だけが抜ける。
これが私の最初の理解でした。あとで書き直すことになります。
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誓う者の血
【史実】ここで、装置の中心にいた人物について触れておきます。
武田勝頼。父方は清和源氏の流れ。母は諏訪頼重の娘――諏訪明神の祭祀を担った家の血です。
つまり勝頼は、御旗が保証する血統と、神という証人の、両方を身に併せ持っていた人でした。誓約装置の二つの系統が交差する一点に立っている。
ところが彼は、七人の兄弟のうち唯一、武田氏の通字である「信」を与えられていません。諏訪の血を引く者が家を継ぐことには、家中に根強い反対があったといいます。
装置のど真ん中にいながら、完全には内側の人間ではなかった。この人が、最後に装置を使うことになります。
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装置が止まった一か月
【史実】天正十年、崩壊は五週間ほどで進みました。
| 時期 | 出来事 |
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| 2月末~3月初 | 木曽義昌離反、高遠城落城(3月2日)、穴山梅雪離反 |
| 3月3日 | 新府城に火を放ち退去 |
| 3月11日 | 田野で滝川一益に捕捉され、勝頼・信勝・北条夫人自刃 |
| 3月中旬 | 武田信豊、小諸で下曾根に討たれる |
| 3月24日 | 小山田信茂、甲斐善光寺で処刑 |
ここで、順番が重要になります。
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小山田信茂は「三人目の離反者」ではない
【史実】新府城での軍議で、真田昌幸は上野の岩櫃城を提案しました。しかし郡内の岩殿城へ入るべしという案が通ります。
【伝承】このとき勝頼は小山田信茂に刀を与え、言葉をかけたと語り伝えられています。居並ぶ者の中には涙する者もいた、と。
そして新府城は焼かれました。退路を自分で焼いたのです。一行は東へ向かい、笹子の先で木戸は閉じていました。
木曽も穴山も、離れただけです。小山田は違う。招いて、閉じた。しかもその招きによって、勝頼は帰る城を失っている。
結果として勝頼は城で死ねませんでした。平山優氏は、新府城を捨てたために名誉ある自刃ができなかったと指摘しています。城で腹を切るのと、山道の脇で死ぬのは、当時の武士にとって別のことでした。
【さとえの見立て】この刀の場面が本当にあったかどうか、私には確認できません。むしろ疑うべきだと思っています。あまりに出来が良すぎるからです。主君が涙し、刀を渡し、一同が感動する――その相手が数日後に木戸を閉じる。裏切りを最大限に残酷にする設計になっている。
顕彰会自身が、江戸時代の『甲陽軍鑑』によって逆臣説が通説になったと述べています。だとすればあの感涙の場面と「不忠者」の評価は、おそらく同じ工房の製品です。
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田野――装置の最後の使用
【伝承】3月11日、巳の刻。
景徳院には「旗立ての松」が伝わります。自刃の前、勝頼が家宝の旗を立てかけ、嫡子・信勝に家督を譲った場所とされる松です。
そして楯無。信勝がまだ鎧着初を済ませていなかったため、勝頼は陣中にあった楯無を急いで着せ、そのあと父子で自刃したという話が残っています。楯無はのちに田辺左衛門尉が於曽へ持ち帰り、塩山の杉の下に一度埋めてから、菅田天神社に納められました。
【さとえの見立て】城はない。評定の間もない。従う者は『信長公記』によれば侍分四十一人、上﨟・侍女五十人。北条夫人は十九歳、信勝は十六歳、勝頼は三十七歳。
その山道の脇で、旗を松に立てかけ、鎧を息子に着せ、家督を渡している。
証人を立てて誓う形式を、その証人がもう誰にも効かなくなった場所で、最後まできちんと踏んでいる。
勝頼は小山田の裏切りを知っても逆上しなかったと伝わります。もし激怒したなら、それは「裏切りは裁かれるべきだ」という前提がまだ生きているということです。逆上しなかったということは――もう裁く場所がないと、彼が誰よりも先に理解していたということではないでしょうか。
効かないと知りながら形式を踏む。これは諦めではなく、たぶん意地です。
(なお現在の研究では、信勝は天正七年にすでに元服を済ませていたと推定されています。この場面もまた、後から作られた可能性が高い。それでも、この場面が語り継がれてきたという事実のほうが、この記事にとっては重要です。)
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「どうか御盾に」――小宮山内膳
【史実】決戦の前、勝頼主従を追いかけてきた男がいます。
小宮山内膳友晴。武田譜代の臣で、使番十二人衆の一人。ただしこのとき彼は蟄居中でした。跡部勝資・長坂光堅・秋山摂津守といった側近たちを歯に衣着せず諫め、長坂の讒言もあって、勝頼自身から謹慎を命じられていたのです。
その命令に背いて、彼は田野へ来ました。
主君と直接口をきける身分ではありません。土屋昌恒に取次を乞い、こう申し出たと伝わります。命令に背いた不忠者とお思いでしょう。しかし譜代の臣でありながら武田家最後の戦いに臨めぬことこそ、末代までの恥辱です。どうか御盾にしてください、と。
土屋も秋山紀伊守も涙したといいます。勝頼は蟄居を解きました。
【史実】そして内膳はここで、二つのことを知り、二つのことをします。
ひとつ。自分を陥れた秋山摂津守や長坂釣閑斎は、すでに逃亡していました。讒言した側が逃げ、讒言された側が戻ってきていた。彼はそれを知って悲嘆したと伝わります。
ふたつ。彼は連れてきた母と妻子を、弟の小宮山昌親らに託して落ち延びさせました。生き残る人間を、意図的に円の外へ出したのです。
内膳自身はその日のうちの鳥居畑の戦いで討死しました。彼の碑は今も立ち、多くの人が訪れます。
【さとえの見立て】ここに、この記事のずっと探していた答えがあります。
御旗楯無の誓いが共同体の死を生き延びられたのはなぜか。誰かが、証言者を故意に逃がしたからです。
ある記述はこう指摘しています――このように生き残った者がいたために、小宮山友晴の忠義の話も、土屋昌恒の千人切りの武勇も、武田家の家宝が塩山方面の寺に現存することも、後世に伝わることになったのだろう、と。
家宝が寺社に残ったのも、話が残ったのも、同じ理由です。滅びる側の人間が、滅びない部分を選んで外へ押し出した。
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装置は、家の外に出た
【史実】ここで私は、自分の最初の理解を書き直さなければなりません。
「共同体が終われば装置も終わる。だから織田は御旗楯無を無視して勝った」――そう考えていました。
織田は無視していません。
『信長公記』『甲乱記』『甲陽軍鑑』によれば、小山田信茂は織田家に仕えようとしましたが、織田信忠から「武田勝頼を裏切るとは、小山田こそは古今未曾有の不忠者」と厳しく言われ、3月24日、母と妻子、武田信堯らとともに甲斐善光寺で処刑されました。郡内領は無主となります。
【さとえの見立て】勝者の側が、武田家中の誓いを承認して執行したのです。
これが決定的だと思います。装置は共同体とともに終わったのではなく、終わる瞬間に外へ出た。武田家中の内輪の評価だったものが、天下を取る側の公式判決に変わった。
だから四百五十年生き延びたのです。
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穴山梅雪との差
【史実】穴山梅雪も、よくは言われません。
本能寺の変の直後、家康と別れた梅雪は、宇治田原あたり――木津川の辺とも――で落武者を狙う土民の一揆に襲われて死にました。享年四十二。勝頼を見限ってまで守った命が、武田滅亡から三か月で尽きた。家督を継いだ嫡子・勝千代も天正十五年に十六歳で没し、穴山武田家は絶えます。
【さとえの見立て】これは判決ではなく、物語の結末です。
名もない者に襲われて死に、家も絶える。「やはりね」で完結する。因果応報には申し立てる相手がいないかわりに、申し立てる必要もない。
小山田は違います。織田信忠という個人が、日付のある場で、言葉にして下した判定です。テキストがある。テキストがあるものには、覆せる可能性が残る。
皮肉なことに、正式な手続きを踏んだ制裁のほうが、恨みを長生きさせました。因果応報で処理された穴山に顕彰会は要りません。判決文を受け取った小山田には要る。
現代の穴山のあだ名は「アナ雪」です。駄洒落にできる。軽蔑はされているけれど、笑いにする程度の距離がある。郡内で小山田を駄洒落にする人はいないでしょう。四百五十年経っても笑えないというのが、汚名と軽蔑の違いです。
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悪役の席は、守る人のいない側に回る
【さとえの見立て】もうひとつ、江戸期の事情があると思います。
穴山は家康の側に立ち、家康の口利きで織田に取り次がれました。家康は天目山の麓に、勝頼の菩提を弔う景徳院まで建てています。徳川政権にとって、穴山を全面的に断罪することは自分の手前が悪い。
一方の甲州流軍学は、その徳川政権のもとで栄えた学問です。誰かを裏切りの見本にしなければ、話が締まらない。
そこで空いていた席が、小山田でした。郡内領は無主となり、一族は処刑され、弁護する者が一人も残っていなかったからです。
悪役の枠は、守る人のいない側に回ってきます。
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誓いには、給与があった
【史実】ただし、江戸期の道徳装置が作ったのは悪役だけではありません。
幕末の儒学者・藤田東湖は、小宮山友晴を「天晴な男、武士の鑑、国史の精華」と絶賛しています。同じ工房が、裏切り者と聖人を同時に生産していたわけです。
そして小宮山の子孫や親族は、江戸期を通じてそれなりの待遇を受けたと伝わります。忠義者の子孫として。
【さとえの見立て】これで話が閉じます。
御旗楯無の制裁は、評判だけの問題ではありませんでした。実際の雇用と扶持に換算されていたのです。
四百五十年前に山の中で下された判断が、江戸期を通じて、家ごとの帳簿に記帳され続けた。忠義の側には禄が、不忠の側には無主の土地が。装置は道徳ではなく、経済として生き延びた。
そして経済として生き延びたものは、簡単には消えません。信玄公祭りで小山田の旗に歓声が上がらないのは、四百五十年分の帳簿の残りだと思います。
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顕彰会の困難
【史実】小山田信茂公顕彰会は、約四百五十年間の「武田家を滅ぼした男」という汚名を晴らすことを目的として明記しています。
設立総会の席では、郡内小山田家が武田家旧温会(武田家臣子孫の会)に入会を許可されたことが報告されました。主張の要点は「そもそも背いていない」――笹子峠は封鎖しておらず、兵は大月で勝頼一行を待っていた、と。
同時に、顕彰会はこうも述べています。信茂公は自らの命と引き換えに郡内を救った。織田・徳川連合軍の郡内侵略はなく、領民も神社仏閣も被害は一切なかった、と。
【さとえの見立て】ここに、この会の抱える構造があります。
二つの主張が、並んでいるだけで、繋がっていない。
「領民を救った」と「裏切っていない」。どちらも言われているのに、両者を因果で結ぶ一本の線――誓いを破る代償を払って領民を救った――だけが、決して引かれない。
引けないのだと思います。その線を引いた瞬間、御旗楯無の前での誓いが問題として立ち上がってしまうから。
本来なら、国衆の論理で十分だったはずです。武田は国衆の連合体であって、絶対的な主従関係ではない。滅亡が確実な主家に領民ごと殉じる義務は、当時の常識としてはむしろ薄い。木曽も穴山も同じことをしている。
でもその筋道は、「離れた」を一度認めることから始まります。認めた上で正当化する。すると必ず、では誓いはどうなるのかと返ってくる。
求められているのは合理性の説明ではなく、汚名の除去です。この二つは、同じ史料からは出てきません。
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祭りに戻る
信玄公祭りの二十四将を演じるのは、由来のある町の町長さんだったり、山梨で展開する大きな会社の重役さんだったりします。
でもその中の一人は、その将の本当の子孫が、先祖の役をやっていました。
そのときだけ、一段と高い歓声と拍手が鳴り響くのです。子孫が先祖を演じ、周囲がそれを尊敬をもって迎える。四百五十年前と同じ構図がそこにありました。
そして、小山田信茂と穴山梅雪の旗も、ありました。演じていたのは何の関係もない人でした。紹介されたときの人々の反応は――正確に書きます――いまいちでした。
誰が決めたわけでもありません。規則もない。1970年代に始まった祭りで、それが毎年起きています。
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言わなかったこと
【さとえの見立て】ここからは、完全に私の想像です。
小山田は、最初は本気だったのかもしれません。岩殿へ迎えるつもりで別れ、郡内へ帰り、自分の領地と兵と村を見て、そこで変わったのかもしれない。
そう考える根拠はいくつかあります。2月末に高遠城へ届いた「小山田らはすでに離反した」という矢文は、虚報だったと指摘されています。その時点では背いていない。新府の軍議で岩殿を推したのが彼自身だったかも確定していません――『甲陽軍鑑』は勝頼側近の長坂光堅が主張したとし、『甲乱記』は勝頼が信茂に諮問したとしています。押し付けられた側だった可能性がある。
勝頼を駒飼で待たせている間に、彼はまず、人質になっていた母を取り戻しています。
小宮山内膳も、母と妻子を先に落ち延びさせました。守るべき者を先に外へ出す――二人は同じことをしています。
違ったのは、そのあとです。
内膳は、自分の理由を声に出しました。取次を乞い、証人の前で述べ、受け取られた。土屋も秋山紀伊守も泣き、勝頼は蟄居を解いた。だから今、石碑の前で人が泣けるのです。泣けるのは、彼が何を思っていたかを私たちが知っているからです。
小山田は、理由を一度も述べていません。行為だけがあって、言葉がない。だから四百五十年、誰も彼の内側を知らないままです。
御旗楯無は、証人の前で理由を述べるための装置でした。彼はそれを使わなかった。もし評定の場で「郡内の領民を捨てられない」と言っていたら、木曽や穴山と同じ扱いで済んだでしょう。嫌われても、汚名にはならなかったはずです。
そして今も、言われていません。顕彰会は「背いていない」としか言えない。理由を述べる代わりに、行為そのものを否定している。
四百五十年前と同じ失敗を、もう一度しているように、私には見えます。
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おわりに
歴史は勝者が書く、と言われます。
でもここで起きているのは、少し違うことです。滅びた側の共同体が、滅びたあとも自分たちの内側で誓いを保存し続け、それに照らして誰かを裁き続けている。しかも装置を天下に持ち出したのは、勝った側でした。
田野には今も多くの人が足を運びます。顕彰会が四百五十年前の判決を覆そうとしているのと、人々が勝頼の死んだ場所を訪ね続けているのは、同じ装置の表と裏だと思います。制裁が生き延びているということは、追悼も生き延びているということです。片方だけは残りません。
御旗は雲峰寺に、楯無は菅田天神社に、今も静かに納まっています。効力は天正十年に抜けたはずでした。
抜けていなかったのは、物のほうではなく、人のほうだったのだと思います。



