> ※この記事は、清朝末期シリーズの「[科挙の栄光(曲江宴)]」と対になります。あちらは「天子に召される=栄誉」の物語。こちらは、同じ「召される」を裏側から見た、ぞっとする一首です。
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隠れ住む蟹に、天子のお召しがきた
『万葉集』巻十六に、忘れがたい一首があります。「蟹のために痛みを述べて作る歌」(3886番)。詠んだのは乞食者(ほかひびと)——諸国を漂泊した最下層の芸人で、歌は一匹の葦蟹(あしがに)の一人称で語られます。
難波の入江の葦の間に庵を結び、ひっそり隠れ住む蟹。その私を、大君(天子)がお召しだという。歌がうまいから? 笛が吹けるから? 琴が弾けるから?——いや、そのどれでもないと、私にははっきりわかっている。それでもお召しとあらば、と宮殿へ参じ、お言葉を待った。
帝は、香辛料を詰めた立派な壺をお示しになり、「この中へ入れ」と仰せられた。賜ったお言葉だから、私はそのまま壺に入る。涙が溢れる。帝は私の涙する目に塩を塗り込み、また塗り込み——そうして干物(腊・きたひ)に仕立て、「うまし」とお褒めになって、私を賞味なさるのだ。
「召される=栄誉」を、裏返す歌
清朝末期シリーズで追ってきたのは、天子に召されて仕えることを男子の大業とした「[科挙の栄光]」でした。
曲江の宴で杯を浮かべた進士の栄光を、裏返すと、この蟹になる。天子に召されるとは、天子に喰われることでもある。
しかも蟹は「隠れ住んで」いました——論語の「邦に道なければ巻きて懐にせよ」を実践していた者です(→「[論語「邦有道則仕」]」)。
退いて隠れても、結局は召し出されて喰われる。そしてこの真実を語れるのは、体制の内で栄光を信じた進士ではなく、体制の外にいる最下層の芸人だけでした。
みな、よろこんで蟹になる
天子のそば近くへ——入口は三つありました。男は四書五経を丸暗記して科挙を通り(考える頭を切り落として)、通れぬ男は性器を切り落として宦官となり、女は美貌を磨いて後宮の花となる。入口は三つでも、行き着く先は同じ。召される場所=喰われる場所です。みな、競って、よろこんで蟹になろうとした。
では、何のために並んだのか。天子から、ひとことを賜るためでした。「よくやった」と認められること。そして——あの蟹が最後に賜ったのは、「うまし」のひとこと。列に並ぶ者みなが渇望した「お褒めの言葉」と、塩辛にされた蟹が賜った「うまし」は、同じひとことだったのです。天子の最上の称賛を賜るとは、ついに、余すところなく喰われきること。
喰われたのは、善意だった
ただし、天子のもとへ行くこと自体が、間違いなのではありません。いちばん深い悲劇は別のところにある——
「お役に立ちたい」と願う蟹こそが、その純粋な心のまま喰われることだ。喰われたのは、欲深い者でも野心家でもなく、ただ誰かの役に立ちたかった者だった。権力のいちばん残酷なところは、悪人を罰することではなく、善意を、その善意ごと、味わって食べてしまうことなのかもしれません。
蟹をつないだのは、縄ではなく、敬い
日本語の「賜る」は、至高の存在から物や言葉をいただく、特別な敬語です。清朝の褒賞——黄馬褂、花翎、紫禁城騎馬、御筆の扁額、死後の諡(おくりな)——を賜ることは、人臣の栄誉の頂点でした。
その栄誉が、蟹を殺します。帝のお言葉を賜ったから、蟹は逃げない。涙し、目に塩を塗られても、じっとそのままでいる——帝のお言葉だから。歌はわざわざ言い添えます。
馬は綱で、牛は鼻縄でつなぐ。けれど蟹は、そのどちらでもなかった、と。蟹をつなぐのに、縄はいらなかったのです。賜るという誉れが、いちばんやわらかい縄になって、獲物を動けなくする。
この「賜る」は、死にも及びます。賜死——白絹や毒酒を賜って死ぬことには、まだ名誉が残っている。皇帝が身分を認め、面目を保って死なせる恩寵だからです。本当に惨めなのは、何ひとつ賜れない死——名もない宦官に唾を吐かれ、棍棒で打ち殺される死(→「[祺貴人]」)でした。その物差しで見れば、帝みずから箸をつけ「うまし」と声をかけられた蟹は、むしろ「賜られた」側だったのです。
宴で歌われたなら、その宴こそ怖い
この歌は宴の余興だった、というのが通説です。けれど、だからこそ怖い。笑っているのは、権力に近い、満ち足りた人々。彼らは、無邪気に近づいた善意の蟹が念入りに味つけされて喰われるのを、肴に笑っている。日本語の「鴨が葱を背負って来る」と、地続きです。
しかも蟹が背負ってくるのは、葱ではなく楡(にれ)の皮——生臭さを抜くためのものでした。喰う側にとって、この蟹はしょせん「下賤の、生臭い者」。だから臭みを抜き、塩で締め、瓶で熟れさせて、ようやく食べてやる。蔑みながら、たいらげる——そこが、いちばん冷たいところです。
大君が召し上がったもの
歌の料理は、二段構えです。まず蟹を潰して塩を加え、瓶で発酵させた醢(ひしお)——水分のあるベチャッとした塩辛。それを乾かして、腊(きたひ)——上品に膳へ盛れる乾物の珍味に仕立てる。腊は、奈良の宮廷料理でした。大君が口にしたのは庶民の雑魚ではなく、手間をかけて寝かせた宮廷の珍味。その一口のために、一匹がまるごと漬け込まれたのです。
百日の宴——熟成は、ひとりでに進む
発酵には、時間がかかります。喰う側はすぐにかぶりつかず、よだれを垂らして、味が熟れるのを待つ。
——戊戌の変法(1898年)が、まさにそうでした。古い体制は、改革の青年たちを百日のあいだ、笑って眺めていた。慌てて潰さず、やらせておく。よく熟れてからのほうが、おいしいからです。
そして発酵の最も恐ろしいところは、喰う側が、手を汚さなくていいこと。蟹自身の酵素が、蟹自身を作り変える。
改革者たちは、自分で詔を出し、味方を表に立たせ、袁世凱を頼って西太后幽閉を企て、その密謀を自分から露見させた——誰に強いられたのでもなく、自分で熟れて、食べごろになっていった。
捕食者の最高の技は、襲いかかることではなく、何もせず、獲物が自分で仕上がるのを待つことだった——尉繚のいう「戦わずして勝つ」(→「[尉繚]」)の、いちばん冷たい姿が、ここにあります。
百三日目、ほどよく熟れたころ「さーて、そろそろ私の出番かな」と、[西太后]が箸を取りました。
誰が、どちら側から歌ったのか
私たちは、この歌を下から——最下層の芸人が、笑い話の顔で主人たちに「あなたがたが食べているのは善意ですよ」と歌った、意趣返しだと読みたくなります。
けれど、手がかりは逆を指しています。歌の末尾の左注「蟹のために痛みを述べて作る」——蟹自身が歌うなら、外から「痛みを代弁した」と断る必要はない。
この注は、蟹の外に立って哀れんでやる者、つまり喰う側から書かれているのです。憐れみの顔をした、上からの歌。誰がこの蟹を悼んでいるのか——その作者の立ち位置すら、ひとつの覆いの下に隠したまま、この一首は千三百年、私たちの前に置かれています。
私の見立て(と、留保)
念のため書いておきます。この歌の原義は、あくまで食べ物を擬人化した滑稽な戯笑歌で、政治の寓意ではありません。「召される=喰われる」も、作者を喰う側に置く読みも、すべて私(さとえ)の見立てです(巻十六の乞食者詠が誰の手になるかは、研究者の間でも議論が残ります)。
それでも——中国の士大夫が二千年かけても出られなかった「召されることの正体」が、日本の名もなき芸人の蟹の歌に、ひょいと裏返しで映っている。隠れていた蟹さえ召されて喰われたように、「巻いて懐にしまう」だけでは、逃げきれない。だからこそ、損を承知で箱の外へ出ようとした人々——林則徐、龚自珍、そして戊戌の譚嗣同——の選択が、いっそう重く見えてくるのです。
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原文(万葉集 巻十六・3886/乞食者の詠)
訓読
> おしてるや 難波(なには)の小江(をえ)に 廬(いほ)作り 隠(なま)りて居る 葦蟹(あしがに)を 大君召すと 何せむに 我を召すらめや 明(あき)けく 我が知ることを 歌人と 我を召すらめや 笛吹きと 我を召すらめや 琴弾きと 我を召すらめや かもかくも 命受けむと 今日今日と 飛鳥に至り 置くとも 置勿に至り つかねども 都久野に至り 東の 中の御門ゆ 参入り来て 命受くれば 馬にこそ ふもだし懸くもの 牛にこそ 鼻縄はくれ あしひきの この片山の もむ楡を 五百枝剥き垂り 天照るや 日の異に干し さひづるや 韓臼に搗き 庭に立つ 手臼に搗き おしてるや 難波の小江の 初垂りを からく垂り来て 陶人の 作れる瓶を 今日行きて 明日取り持ち来 我が目らに 塩塗りたまひ きたひはやすも きたひはやすも
左注 右の歌一首は、蟹のために痛みを述べて作れるなり。(右歌一首、為蟹述痛作之也)
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