「海軍のお金で庭を造った」――その有名な話を、もう一度検証する
はじめに――下関の書と、北京の庭園
以前、私は下関で李鴻章の書を見て、その教養に打たれた話を書きました(→[下関で李鴻章の書を見た])。
その李鴻章が心血を注いだ北洋艦隊は、日清戦争で日本に敗れます。
では、なぜ北洋艦隊は負けたのか。その敗因として、必ずと言っていいほど名前が挙がるのが、北京郊外の壮麗な庭園――**頤和園(いわえん)**です。
「西太后が、自分の隠居所である頤和園を造るために、海軍の予算を横取りした。そのせいで北洋艦隊は新しい軍艦を買えず、日清戦争に負けた」
この話は、あまりにも有名です。下関で敗戦の後始末を背負わされた李鴻章と、北京で庭園を愛でる西太后。この対比は、清朝末期の腐敗を象徴する一枚の絵として、語り継がれてきました。
けれど、この有名な物語は、どこまでが史実なのでしょうか。今回は、その検証をしてみたいと思います。
頤和園とは何か――母のために造られた庭
頤和園は、北京の西北に広がる広大な皇家庭園です。
もとは**清漪園(せいいえん)**といいました。造ったのは乾隆帝です。乾隆十五年(1750年)、母である崇慶皇太后の六十歳の祝いのために、西湖を掘り拡げる工事が始まりました。掘り出した土は北側の瓮山(おうざん)に積み上げられ、山は「万寿山」と改名されます。湖は漢の武帝の故事にちなんで「昆明湖」と名づけられました。
そして、仏を篤く信じる母のために、万寿山の南斜面に大報恩延寿寺という壮大な寺院群が建てられます。今そこに立つ仏香閣は、その中軸線を受け継いだ建物です。山の裏手には、チベット仏教の様式を模した四大部洲も置かれました。
つまりこの庭は、はじめから「母のための庭」であり、「孝を以て天下を治める」という乾隆帝の姿勢を、目に見える形にしたものでした。造営費は銀四百八十万両あまりと記録されています。
その清漪園が、1860年のアロー戦争(第二次アヘン戦争)で英仏連合軍に焼き払われます。廃墟となっていたそこを、1880年代に西太后が再建し、1888年に「頤和園」と改めた――これが現在の姿です。
「海軍費の流用」――実際に何が起きたのか
問題は、その再建費用がどこから出たか、です。
まず押さえておきたいのが、**海軍衙門(かいぐんがもん)**という役所の存在です。1885年、清仏戦争の敗北をきっかけに、海軍を一元的に統括するために新設されました。その総理大臣に就いたのが、醇親王・奕譞(えきけん)。溥儀の祖父にあたる、あの「無害に徹した」皇族です(→[醇親王家 無害という戦略])。李鴻章はその下で会辦(副責任者)を務めました。
流用は、単純な「予算の横取り」というより、もう少し込み入った形で行われたようです。
ひとつは、海軍衙門の名義で各省から集められた資金――いわゆる「海軍巨款」です。これを銀行に預けて生じた利息などが、庭園の工事に回されました。名目上は「海軍のお金」ですが、艦隊の運用予算そのものを丸ごと抜き取った、というのとは少し違います。
もうひとつが、名目の作り方です。昆明湖で海軍学校(昆明湖水師学堂)の訓練を行う、という体裁が整えられました。庭園の工事を「海軍事業」として説明できるようにしたわけです。
奕譞は、西太后の歓心を買うため、この流れに深く関与したとされています。無害であろうとした皇族が、権力者を喜ばせるために海軍の名義を差し出した。醇親王家の生存戦略の、影の部分がここに現れています。
肝心の金額ですが、これがはっきりしません。かつては三千万両という途方もない数字が語られましたが、近年の研究では数百万両から一千万両程度と見る説が有力です。もっとも、記録に残らないように動かされたお金ですから、確定は難しいというのが正直なところです。
そして、この話は次のような因果の鎖として語られてきました。
頤和園に海軍費が流れた → 北洋艦隊が更新されなかった → 日清戦争で敗れた → 李鴻章が下関で講和に臨んだ → 旧世代の軍事力の限界が露呈した → その反省から袁世凱の北洋軍が生まれた
以前書いた八旗の記事(→[八旗の衰退から袁世凱まで])で触れた「日清戦争の敗北」、その「なぜ負けたか」の答えの一つが、頤和園だった――というわけです。
【私の見立て】でも、本当にそれだけだったのか
ここからは、少し立ち止まって考えたいと思います。
「頤和園が海軍を弱らせて、日清戦争に負けた」という物語は、非常に有名で、わかりやすい。悪女・西太后が私利私欲で庭を造り、そのせいで国が負けた。勧善懲悪の筋書きとして、実によくできています。
だからこそ、私は少し警戒します。わかりやすすぎる物語は、たいてい何かを単純化しているからです。
留保をつけたい点が、三つあります。
一つは、金額です。 先に書いたとおり、流用額は長く誇張されて伝わってきました。「頤和園が海軍を丸ごと食い潰した」と言えるほどの規模だったかは、慎重に見る必要があります。
二つめは、艦隊が更新されなかった直接の原因です。 北洋艦隊は1888年の正式成軍以降、主力艦をほとんど増やせませんでした。その決定打となったのは、1891年に戸部(財務省にあたる役所)が出した通達です。財政難を理由に、今後二年間、外国製の軍艦・大砲の購入を停止する――そう上奏し、認められました。
これは西太后の私的な浪費とは別の話です。国家財政の逼迫と、朝廷内の力学――李鴻章という一人の漢人官僚に軍事力が集中することを警戒する空気も含めて――が生んだ決定でした。
三つめは、敗因そのものの複合性です。 速射砲の不足、砲弾の問題、指揮系統の混乱、戦術の拙さ、補給の不備。砲弾については「砂が詰まっていた」という逸話が有名ですが、これには誇張も含まれるとされます。ただ、炸薬の入った榴弾が不足し、命中しても貫通するだけの徹甲弾が多かったことは実際に指摘されている点です。
そして忘れてはならないのが、日清戦争は海戦だけの戦争ではなかったということ。平壌でも遼東でも、清軍は陸で負けています。
だとすれば、西太后一人の贅沢に、日清戦争敗北の責任を全部背負わせるのは、やや単純化がすぎるのかもしれません。
【私の見立て】西太后は、何を再演しようとしたのか
では、彼女はなぜ、これほどこの庭に執着したのでしょうか。
1894年は、西太后の六十歳の誕生年でした。
そして彼女は、この六旬万寿慶典を、乾隆朝の先例に遵って行うよう命じています。手本とされたのは、崇慶皇太后――乾隆帝の母の慶典でした。
思い出してください。清漪園が造られたのは、その崇慶皇太后の六十歳の祝いのためです。
崇慶皇太后の六旬(1751年)に、清漪園ができた。西太后の六旬(1894年)に合わせて、頤和園が仕上げられた。 同じ場所で、百四十年の時を隔てて、同じ光景をもう一度演じようとしていたわけです。
模倣は徹底していました。乾隆帝が晩年、譲位後の住まいとして寧寿宮を営んだのに倣い、西太后も1889年、光緒帝への帰政を宣言したあと寧寿宮に移り住みます。乾隆帝が誕生日に沿道を飾り立てて園林へ向かったように、彼女もまた頤和園で祝賀を受けることを計画しました。
その沿道の飾りつけ――「点景」の規模がすさまじい。紫禁城の西華門を出て、西安門、西四、西直門を抜け、頤和園の東宮門まで。数十里の道の両側に、龍棚、経壇、戯台、牌楼、亭座が区間ごとに建てられる計画でした。崇慶皇太后の三度の慶典がいずれも銀八十五万両を超えたのに対し、西太后の点景費用は百五十万両以上と見積もられています。
費用の出どころも記録に残っています。1893年、礼親王・世鐸の奏請により、在京の王公大臣と地方官から献納が集められました。在京二十六万三千九百両、外省九十四万三千両、合わせて百二十万六千九百両。海軍費の流用とは、また別の流れです。
そして、その先はご存じのとおりです。
1894年7月、日清戦争が始まる。9月17日、黄海海戦で北洋艦隊が敗れる。その八日後の**9月25日、頤和園での万寿慶典中止の上諭が下りました。**沿道の点景は撤去されます。誕生日当日、彼女は紫禁城の寧寿宮で、ひっそりと祝賀を受けました。
当時、こういう対聯を書いた者がいたと伝えられます。
万寿無疆、普天同慶 三軍敗績、割地求和
百四十年前の光景をもう一度演じようとして、演じきれなかった。頤和園は、上演されなかった舞台でもあったのです。
【私の見立て】誰も、彼女のためには造ってくれなかった
けれど、乾隆帝と西太后の間には、決定的な違いがあります。
崇慶皇太后の庭は、息子が造ってくれたものでした。
乾隆帝の母への敬愛は、清朝でも際立っています。六度の南巡すべてに母を伴い、五台山にも同行し、六十、七十、八十と祝いを重ねるごとに儀礼を厚くしていった。清漪園は、その気持ちが形になったものです。母は、ただ受け取る側にいればよかった。
では、西太后のために、誰が造ったのか。
実は、息子が造ろうとした時期はあるのです。1873年に親政した同治帝は、その最初の大事業として円明園の再建に着手します。名目は「両宮皇太后に頤養の日々を送っていただくため」。上諭の言葉を借りれば、上は太后の御心を娯しませ、下は自分のささやかな孝心を尽くす、と。
けれど、これは孝行ではありませんでした。故宮博物院の記述はこう書いています――同治帝は円明園の修復を利用して、太后を宮の外に住まわせ、その政治干渉から逃れようとした、と。
孝が、母を追い払う道具として使われている。
そして西太后は、実子のその企みを見抜いたうえで、気にしませんでした。彼女自身が再建を望んでいたからです。設計図も模型もすべて彼女のもとに裁可を求めて運ばれ、「天地一家春」の内装図案は自ら筆をとって描いたほどでした。
工事は1874年に始まり、資金難と詐欺事件で行き詰まります。同年7月、恭親王が重臣十名を率いて諫めると、同治帝は激怒して「この位を汝に譲ろうか」と言い放ちました。工事は停止。その半年後の1875年1月、同治帝は急死します。
そして十数年後、光緒帝の親政に際して、今度は「西太后に頤養の余生を送っていただくため」として頤和園の造営が始まりました。頤和園という名そのものが、「頤養太和」――安らかに老いを養う、という意味を持ちます。
ここで、注目すべきことが起きています。1874年に恭親王らが円明園再建を阻止したのとは対照的に、今度は朝廷内外の反対の声が最低限まで下がり、逆に阿諛追従する者が大いに増えたと指摘されているのです。
同じ女性のための庭を、1874年の朝廷は止め、1888年の朝廷は止めなかった。変わったのは金額ではありません。忖度の量です。
こうして並べてみると、頤和園という庭の空洞が見えてきます。
乾隆帝の庭には、実体としての孝がありました。息子が母を思い、その気持ちが庭になった。西太后の庭にあったのは、その形式だけです。彼女のために心から庭を望んだ子はいなかった。息子は孝を口実に彼女を遠ざけようとし、その息子は死に、次の皇帝は彼女が選んだ甥でした。
だから彼女は、自分で自分のために、孝の儀式を発注しなければならなかった。周囲は誰も止めませんでした。止めないことが、彼らの生存戦略だったからです。
**頤和園が本当に語っているのは、「海軍費いくらが庭に流れたか」ではなく、清朝という国が何を優先する国になっていたか、ということなのだと思います。**金額の多寡ではありません。「国家の大事より、権力者の満足が優先されうる」という空気そのものが、この王朝を蝕んでいた。
そしてもう一つ。この「西太后のせいで負けた」という物語自体が、ある機能を果たしてきたのではないでしょうか。皇族も、官僚も、いざとなれば「あれは西太后がなさったことだ」と言える。**責任を一手に引き受けてくれる悪女がいれば、その周りの全員が助かる。**止めなかった人々にとって、これほど都合のいい結末はありません。
おわりに――虚しい庭
頤和園は、今も北京に残り、世界遺産として多くの観光客を集めています。
私も行きました。日本の宇治平等院を極楽の庭園と見ていた私には、あまりにも広くて、巨大でした。人工とは思えない昆明湖。周囲を巡る、美しい装飾のほどこされた回廊。
そして歩きながら、私はずっと、台湾の日月潭を思い出していました。
日月潭では、蒋介石の別荘だった涵碧楼のあたりから船に乗って湖に出ます。渡った先の山には仏を祀るお堂がある。玄光寺と、玄奘三蔵の頂骨舎利を安置する玄奘寺です。そして湖を見下ろす山頂には、慈恩塔。蒋介石が、母・王太夫人を偲んで建てた塔です。湖の小島と玄奘寺と慈恩塔は、一直線の軸の上に並んでいます。
頤和園も、同じ形をしていました。皇城の西から長河という水路をさかのぼり、船で夏の離宮へ入る。西太后もこの水路を使いました。昆明湖の北岸には仏を祀る万寿山がそびえ、その中軸線の先に、母のために建てられた寺院群がある。
湖があり、船があり、仏の山があり、その軸の先に母を祀る。二百年を隔てた二人の権力者が、ほとんど同じ形の風景を造っていました。
けれど、並べてみて気づいたのです。乾隆帝も蒋介石も、息子の側にいます。母を思い、母のために建てた。
その型に、西太后だけが入れません。彼女は、建てる人と祀られる人を、一人で兼ねなければならなかったからです。
先に私は、乾隆帝の造営費四百八十万両と、西太后の流用額はほぼ同じ桁だと書きました。けれど、同じ額を使ったからといって、同じことをしたわけではありません。
乾隆帝の庭には、贈る人と贈られる人がいました。西太后の庭には、彼女しかいなかった。
1893年に集められた献納金、百二十万六千九百両。あれは、在京の官員はいくら、外省の官員はいくらと、あらかじめ割り当て金が決められていました。**祝意に、金額表が付いている。**それはもう、祝福ではありません。
誰も、心から彼女の誕生日を祝ってはいなかったのだと思います。そして彼女自身、それを知らなかったはずがない。知っていて、なお、盛大にやらせた。
だから私は、祝意の押し付け、ただの浪費と思うのです。
けれど、ただの浪費と言って終わりにすると、こぼれ落ちるものもある気がします。
彼女が本当に欲しかったのは、庭ではなかったのではないでしょうか。乾隆帝の母になりたかったのだと思います。息子に慕われ、六度の南巡に伴われ、六十を祝われて湖と山と寺を贈られ、八十を過ぎるまで敬われて生きた、あの女性に。
権力なら、彼女は手に入れました。清朝で女性が到達しうる頂点まで行った。湖を掘らせることも、道に龍棚を並べさせることも、官僚に金を出させることもできた。買えなかったのは、祝う気持ちだけです。
そして、その買い集めた祝いさえ、黄海の敗報の八日後に中止になりました。
歴史は勝者が書く、とよく言われます。この庭についても、その言葉を使いたくなる場面はあります。「海軍を食い潰したせいで負けた」という具体的な罪状のほうは、たしかに敗戦のあとから組み立てられたものでした。止めなかった人々には、そう語るだけの動機がありました。
けれど、乾隆帝の庭と西太后の庭を分けたものは、勝敗ではなかったと思います。中身が、はじめから違っていたのです。
中国人ガイドさんは、「この庭園のせいで日本に負けたのだ」と説明していました。私は、そう断罪するのも、逆に「敗戦とは無関係の美しい庭」と割り切るのも、どちらも違うと思いました。
これは、負けた原因の庭ではありません。空っぽの庭です。
昆明湖は今日も美しい。回廊の絵は一枚ずつ違い、仏香閣は湖のどこからでも見える。あれだけのものを造らせて、それでも埋まらなかったものが、確かにあったのだと思います。
私が下関で見た李鴻章の書と、北京の頤和園。
屈辱を背負って講和に赴いた男の筆跡と、その敗戦の遠因とされる庭園。
この二つを並べて眺めるとき、清朝末期という時代の重さが見えてきます。
そして――教養豊かなあの李鴻章を、中央から切り離して一人にさせたのは、いったい誰だったのか。どうにかしてやれなかったのか。
そんな問いが、湧き上がってくるのです。
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