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劉解憂 前漢時代  西域の烏孫に嫁いだ実在の和親公主 テレビドラマ解憂と史実

テレビドラマ 解憂が生まれるまで

テレビドラマ 解憂(かいゆう)~西域に嫁いだ姫君~ は中国前漢の時代、実際に西域に嫁いだ和親公主劉解憂(前120年 – 前49年)の物語です。

匈奴からの攻撃を恐れた烏孫は公主を娶り漢と兄弟となることを希望しました。

烏孫は千匹の馬を結納として送り、漢は皇族の娘である劉細君を嫁がせました。

その後、烏孫の王は、劉細君を右夫人とし、匈奴からもきた嫁を左夫人としました。

左夫人の方が、右夫人より格上です。

なぜならば、匈奴の方が、漢よりも強かったからです。

和親公主 劉解憂の史実

劉細君が死ぬと、烏孫は武帝に烏孫と漢の同盟維持のため新たな公主の輿入れを求めました。

そこで、前100年、漢はふたたび劉解憂を和親公主として烏孫の昆弥軍須靡に娶らせました。

昆弥軍須靡が死去した後、彼女は烏孫の慣習レビレート婚に従って、従兄弟である翁帰に嫁いで、3人の男の子と2人の女の子を生みました。

 

漢の宣帝の時代に、匈奴が烏孫を侵略しました。

彼女は、翁帰とともに漢に救援を求めました。

前71年、漢軍は匈奴を大いに打ち負かし、烏孫を救いました。

前64年、翁帰が死去しました。

 

軍須靡と匈奴の女性との間に生まれた子供である泥靡が後を継ぐことになりました。

彼女は再び彼に嫁ぎ、一人の子供を生みました。

しかし、泥靡は暴君でした。

それに、泥靡は元々匈奴と烏孫の間の子供でしたので、解憂とは意見が合いません。

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前53年には、彼女は漢の使者と共に泥靡を殺そうと企てましたが失敗しました、

怒った泥靡に包囲されて、彼女は赤谷城に籠城をしました。

漢の西域都護に救われ、ようやく困難から逃れました。

 

年を取り、彼女は故郷を恋しく思うようになり、漢に戻ることを願いました。

宣帝は彼女の困難を哀れみ、前51年に孫たちと一緒に漢に迎えられました。

田畑や奴隷を与えられ、2年後に病で亡くなりました。

 

匈奴は今のモンゴル国、烏孫は今のキルギス共和国とカザフスタン共和国のあたりにあったようです。

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