烏孫との計略結婚
前漢、武帝の時代。 西域のトルコ系の民族の国家・烏孫の国へ、漢から政略結婚で紀元前105年細君公主が嫁ぎました。
細君公主は、年老いた王とは言葉も通じず、風俗は何もかも知らぬことばかりで、ただ悲しみに暮れていました。
烏孫の重大性について、地図を書きました。ちょうど、草原の道と絹の道に挟まれた、通商上大切な場所だとわかります。
細君公主の悲愁歌
悲愁歌
(悲しみの歌)
吾家嫁我兮天一方
(我が一族は私を地の果てに嫁がせた)
遠托異國兮烏孫王
(遙か彼方の見知らぬ異国の烏孫王のもとへ)
穹廬為室兮旃為牆
(ドーム型のテントは私の部屋、フェルトは私の壁)
以肉為食兮酪為漿
(肉を食べ、発酵乳を飲み物にする)
居常土思兮心内傷
(ここにいると私の土地が恋しくて心が痛む)
願為黃鵠兮歸故郷
(黄鵠(こうこく)となって故郷に戻れたらいいのに)
気の毒だと皆が憐んで有名な詩らしいのですが、漢人の感覚が抜けていないので、国家の思惑を考えている武帝にレビレート婚が嫌だと手紙を書いているそうです。
武帝はそちらの慣習に従うようにと返事を書いたようです。
ドラマでの解憂の活躍
流石に武帝もこれには困ったとみえて、次の和親公主は、柔軟性があり、頭の回転が良さそうな人を選んだようです。
漢の宮廷から一歩も出ずに育った皇女よりも、皇族だけれど、傍系の罪に連座した家系の娘を公主として送り込むことにしました。
解憂は言葉を覚え、習俗にも馴染み、女外交官みたいな活躍をしたようです。
烏孫の宮廷は匈奴派と漢派に別れていたようです。
また烏孫の古くからの貴族は匈奴・漢双方があまり力を持つのを好ましく思っていませんでした。
最初の夫の時は、烏孫の後宮で匈奴の嫁や烏孫の貴族の嫁と対等に渡り合って自分の地位を築きました。
二番目の夫はすっかり、漢派にしてしまいました。
三番目の夫は匈奴の母から生まれていたので、どうしても匈奴派だったので、暗殺まで目論んでいます。
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最終的に自分の産んだ子供を王につけました。
烏孫の王は、匈奴と漢から同じ日にお嫁さんを迎えました。
匈奴からきたお嫁さんは草原の道(毛皮の道)を通って烏孫にやってきたと思います。紫の線で書きました。
カラコルム→ホウド→ウルムチ→アルマティ です。
解憂はシルクロードを通って烏孫入りしたと思います。赤の線で描きました。
長安→蘭州→敦煌→ハミ→トルファン→コルラ→クーチョ→アコスーです。
匈奴の義律(ぎりつ)将軍は、漢の和親公主である解憂が烏孫に到着するのを阻止するため、解憂たちが玉門関を出てしばらく進んだところ、草原の野営地で休んでいるところを襲います。テレビではどこだか言っていませんでしたが、おそらくトルファンからクーチョの間だと思います。
亀滋(クーチョ)には漢時代、西域都護がおかれ、軍隊がおかれ。経済の中心だったのです。
侵略してきた匈奴兵を蹴散らした漢軍は、その勢いで匈奴兵が逃げたとされる遊牧民の村に夜襲をかけようしましたが、それは西域の遊牧民を二分する匈奴派の謀略だと気がつき、止めました。
しかし匈奴兵が漢軍に見せかけて火攻めをおこなったので村民が多数犠牲になってしまいました。
高昌国は漢の属国でしたので、解憂たちを助けに来た漢軍が西域の遊牧民の村を誤って攻撃させることにより、高昌国の漢からの分離をねらったのかもしれません。
西域は莫大な富を産む交易路ですので、漢も匈奴も抑えたかったのだと思います。
漢と匈奴の立場が逆転
最終的に漢と烏孫は同盟を結び、匈奴をやっつけることができ、匈奴と漢の立場は逆転しました。
漢の始祖劉邦は匈奴の冒頓単于に敗れていたので、それまでは、漢の方が下だったのです
。漢は、匈奴から領土を奪うことができました。
解憂は、引退して、漢に帰還して領土と退職金と言おうか慰労金をもらっています。
なので、漢政府からしたら、お勤めご苦労さん的な好ましい政略結婚だったようです。