蕭胡輦は、当時遼の西北部を可敦城を拠点として守っていました。遼の西北部、イルティシュ川東にはナイマン族が住んでおり、そのナイマン族を遼に従わせる役目をしていました。
撻覧阿鉢は、馬丁をしていた事を考えると、支配民族の契丹人でなく、被支配民族のナイマン族とみて良いと思います。ナイマン族は、モンゴル系ながら、隣接する、キルギスとウルグアイと交流があり、トルコ系との混血も進み、テュルク系遊牧民とも言われ、自由活発な気風があったらしいです。
たびたび遼の支配に反抗し、独立を求めていたようです。
撻覧阿鉢は、中国側の資料なので、卑しい馬丁と書かれてしまったようですが、単なる馬丁が将軍を勤められるわけはないでしょうから、ナイマン族武闘集団を率いる力のある男性のように思います。
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また、中国側の資料しか残っていないので、蕭胡輦が若い男に入れあげたというように書かれてしまったり、撻覧阿鉢が若いだけで礼儀知らずとかかれただけだと思います。
実際は蕭胡輦はあまりに漢化して契丹らしくなくなってしまった遼を嘆いていた事から、自分の理想の契丹族と撻覧阿鉢の自由を愛する遊牧民の心とが通じ合ったのではないかと思います。
ナイマン族は度々遼のために武闘集団を組んで戦ったのに、なんの見返りもなかったこと、
ナイマン族と接する機会の多かった蕭胡輦や彼女のオルドもナイマン族の自由の気風に触れていたこと、
遼の皇帝が蕭胡輦からオルドを奪おうとしていたこと、
彼女のオルドの人々は遼の皇帝の中央集権からの自由を求めていた事、
などからともに立ち上がって反乱となってしまったと思います。