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ラストエンペラーの川島芳子は、映画とは違う——松本が知る、本当の彼女

映画『ラストエンペラー』で”悪役の女スパイ”として描かれた川島芳子。けれど私の故郷・松本では、彼女は「馬で女学校に通った、あのお姫さま」であり、町はずれの寺に眠り、いまも毎年三月に法要が営まれる人です。映画の伝説と、松本が覚えている実像。その距離を、残された記録と証言からたどります。

川島芳子とは——立憲君主制を夢見た父の娘

川島芳子(かわしま よしこ)は、1907年、清朝の皇族・粛親王善耆(しゅくしんのう ぜんき)の第14王女として北京に生まれました。本名は愛新覚羅顯㺭(あいしんかくら けんし)。

父・善耆は、清朝が生き延びるために、日本の明治維新にならった立憲君主制への転換を夢見た改革者でした(父の生涯は→「[粛親王善耆——改革者の生涯]」)。子どもたちに日本語を学ばせたのも、その夢のためです。ところが芳子が4歳のとき、1911年の辛亥革命で清朝は倒れます。父は清朝復活の望みを幼い芳子に託し、彼女を、最も信頼する日本人・川島浪速(かわしま なにわ)の養女としました(浪速の生涯は→「[川島浪速——紫禁城を救った松本人]」)。こうして芳子は、長野県松本市の浅間温泉で育つことになります。

馬で通った「清朝のお姫さま」

松本高等女学校(現・松本蟻ヶ崎高校)に入り、浅間温泉から馬に乗って通学した——このエピソードは、松本では有名です。町の人は「さすが清国のお姫さま」と言い合い、いつか中国へ帰る人だと思っていました。今も蟻ヶ崎高校の敷地には、彼女が馬をつないだ木が残っています。標識はなく、「川島芳子を偲ぶ会」の方に教えてもらわなければ、そうと気づかず通り過ぎてしまう一本です。私の高校の恩師も、芳子が馬で通うのを実際に見たと話してくれました。歴史の教科書に載る「男装の麗人」が、私の故郷では、恩師が実際に目にした「馬に乗ったお姫さま」として、地続きに存在している。この距離の近さが、松本という土地の特別なところです。

卒業できなかった理由

1922年、実父・善耆が亡命先の旅順で世を去ります。北京での葬儀に、芳子は一族として参列するため、日本を離れました。旧清朝の親王の葬儀は、満鉄の十両編成の特別列車で一族が北京入りするような、盛大で長い行事です。学校も欠席を了承していました。ところが、その留守のあいだに校長が交代し、新しい校長が「出席日数不足」を理由に、芳子を退学処分にしてしまう。——そのため、卒業名簿に、彼女の名前は残っていません。

私はこの小さな行き違いに、なぜか胸を打たれます。スパイ伝説よりずっと前、ここには、日本の出席規則と清朝の葬儀という、二つの世界のあいだで宙づりになった一人の少女がいた。二つの国が両立しない要求を彼女に突きつけたのは、これが最後ではありませんでした。むしろ、彼女の生涯そのものが、この「二つの世界のあいだで宙づりになる」ことの、長い反復だったのです。

断髪と男装は、「戦う覚悟」の表れ

17歳のとき、芳子は髪を切り、男装するようになります。その理由をめぐっては興味本位の憶測も流れましたが、私はそうは思いません。これは「いざとなれば、自分も戦う」という決意の表れだったのだと思います。清朝復興のためなら政略結婚も辞さず、男にしか許されなかった「自ら戦う」役割を、女の身で引き受けようとした——その覚悟が、断髪だったのではないか。養父・川島浪速もまた、義和団の乱で紫禁城への砲撃を単身の交渉で防ぎ、松本で清朝の文化遺産を守り伝えようとした人物です。芳子を貶める物語は、この養父の人物像とも、まるでそぐいません。

蒙古の将軍の息子との、短い結婚

20歳のとき(1927年)、芳子は蒙古の将軍の息子・甘珠爾扎布(カンジュルジャブ)と結婚します。旅順のヤマトホテルで、関東軍参謀長・斎藤恒の媒酌によって式が挙げられました。相手の父は、満蒙独立運動のさなかに戦死した将軍・巴布扎布(バボージャブ)。じつはこれは本人どうしの縁ではなく、「満蒙連盟」を次の世代で組み直すための政略結婚でした(この背景は→「[満蒙独立運動と、四人の人間]」)。

けれど、嫁ぎ先とは、うまくいきませんでした。とりわけ、夫の姉と折り合わず、芳子はついに蒙古を飛び出してしまいます。結婚は、三年ほどで破綻しました。

ここに、ひとつ見立てを重ねさせてください。

私の見立て――国を失った和親公主

芳子は、鉄帽子王の家に生まれた、名門中の名門の姫です。本来なら、清朝宗室の親王の嫡福晋(正室)の座につく、それどころか満蒙が独立国になれば、皇帝の姉妹になる人でした。崇められて当然と思っていたでしょう。

私の想像ですが、嫁いだ先の蒙古の将軍の家では、彼女を和親公主(わしんこうしゅ)――漢や唐が、匈奴や草原の王のもとへ、同盟のために嫁がせた姫たち――のように思っていたのではないか。けれど、本物の和親公主の背後には、送り出す帝国が生きて在り、たくさんの貢物とともにやってきました。ところが芳子の背後の清朝は、もう崩壊していた。彼女は、国を失った和親公主。お金も絹織物も持参してこない。「ちょっと思っていたのと違う」――それが、将軍の姉と合わなかった理由ではないか、と。

いかにも彼女らしい後日談も、腑に落ちます。のちに夫が新しい妻を迎えたとき、芳子は、自分こそ正妻(嫡妻)だと信じて疑わなかったのでしょう、その新しい妻を、まるで側室を迎える正妻のように扱って、祝いの品を贈った、と伝えられます。とても、清朝の皇族らしい考え方です。政略で結ばれ、こじれてしまった結婚でさえ、彼女の中では「正妻としての自分」という誇りは、少しも揺らがなかった。二つの祖国に引き裂かれ、男装して戦おうとしても、その芯には最後まで、鉄帽子王家の姫としての気位があった。そんな気がします。

 

映画『ラストエンペラー』は、実像とは違う

ベルトルッチ監督の『ラストエンペラー』は、芳子を、婉容(えんよう)皇后の同性の恋人であり、皇后にアヘンを勧めた女、として描きました。強烈な映像です。けれど、これは記録ではなく、伝説の層の話です。女学校時代の同級生たちの証言では、彼女にそうした性向はなく、知的で、厳格で、誇り高い人だった。アヘンとも無縁でした。何より、父の教育を守り、人生のすべてを清朝復興に賭けた娘が、よりによって清朝の皇后をアヘン漬けにする——そんなことが、あるでしょうか。

(婉容が実際にどのようにアヘンへ追い込まれていったかは、満洲国の側の事情として別に書きました。芳子とは、まったく無関係の話です。)

二つの祖国に、裏切られて

その後、芳子は清朝の復活を願って日本軍に協力し、さまざまな工作に関わったとされます。けれど、建国された満州国で溥儀はただの傀儡で、彼女の夢とはおよそ縁遠いものでした。

芳子自身、それに気づいていました。1937年、松本の公会堂での講演で、彼女は満洲族の衣装をまとってこう訴えたと伝えられます。満洲国は日本の傀儡であって、願った清朝復辟ではない、と。「討つ人も討たれる人も心せよ」と、侵略された同胞に代わって抗議さえした。彼女の夢と、日本の大陸政策は、もう完全にすれ違っていたのです。

利用されるだけ利用され、やがて用済みとされた彼女は、日本の側からも疎まれます(軍部が”始末”を考えていた、とも伝えられます)。そして1945年の敗戦後、芳子は中国国民党政府に捕らえられ、「中国人でありながら日本に協力した漢奸(裏切り者)」として裁かれました。裁判はわずか三回の審議で死刑判決。作家・上坂冬子は、判決理由の一部(溥儀を北京に移させ復辟を命じた等)は事実に合わないと指摘しています。

1948年3月25日、北京で銃殺。満40歳でした。

銃殺のあと、遺体の獄衣から、一編の詩を書いた紙が見つかったと伝えられます。

家(いえ)有れども帰り得ず 涙有れども垂るる処無し 法有れども公正ならず 冤(えん)有れども誰に向かってか訴えん

家がありながら、帰れない。涙がありながら、流す場所もない。法がありながら、公正でない。無実の罪がありながら、誰に訴えることもできない――。上の二句は、芳子が生前から好んで揮毫していた句でした。二つの祖国を持ちながら、そのどちらにも帰れなかった人の、絶唱です。

 

中国に残った姪・廉子と、『望郷』

川島の家に託された清朝の皇女は、芳子だけではありません。浪速は、善耆の長男・憲章の娘――つまり善耆の孫であり、芳子の姪にあたる少女も養女に迎えました。川島廉子(れんこ、1913〜1994)です。(※芳子の”妹”としばしば混同されますが、廉子は姪。実妹は別人の顯琦〔金默玉〕です。)

彼女の生涯は、同じ悲劇の、さらに苛烈な変奏でした。日本で育ち、敗戦ですべてを失い、共産中国では「王族の生まれ・日本育ち」ゆえに「悪い分子」とされて労働改造に送られ、文革では日本のスパイと糾弾される。それでも――戦後、多くが国外へ逃れるなか、廉子は中国に残ることを選びました。祖国の独立を喜び、新しい中国のために働きたいと願ったのです。

その願いは、ついに受け入れられませんでした。三十年の苦難ののち、1981年、67歳でようやく日本に帰り、1994年に世を去ります。娘の川島尚子が、母の生涯を一冊にまとめました。題は『望郷』(集英社、2002年)。望んだ「郷(ふるさと)」は、日本か、中国か。おそらく、そのどちらでもあり、どちらでもない。彼女が最後に望んだのは、どちらの国からも、一人の人間として認められることだったのだと思います。この題は、この一族全体の上に、そのまま掲げられます(廉子の生涯は→川島廉子 もう一人の川島の姫)。

正麟寺に眠る——父の書のそばで

処刑のあと、一人の日本人僧侶――臨済宗妙心寺派の古川大航(こがわ だいこう)が、わざわざ中国まで芳子の遺骨を引き取りに行きました。彼は芳子と面識がありませんでしたが、遺体から見つかったあの詩を見て、「これを書けるのは芳子のほかにいない」と語ったと伝えられます。政治的な評価がどうであれ、松本の人にとって、芳子は「川島家の娘、清朝の大事なお姫様」であり続けたのです。

1949年に川島浪速が亡くなると、芳子は、松本市蟻ヶ崎の正麟寺の川島家の墓に、養父と共に葬られました。墓のそばには、実父・善耆自筆の書を刻んだ石碑が立っています(この石碑の物語は→三つの石)。北京・松本・そして戻らなかった王朝――彼女の人生が、この一点に静かに重なっています。

2023年3月、私は「偲ぶ会」の方の案内で、初めてお参りしました。

 

「川島芳子を偲ぶ会」——二百首の、静かな声

いまも毎年3月25日ごろ、正麟寺で法要が営まれ、県の内外から人が集まります。2001年には、彼女が私的に書きためた二百首の和歌が歌集として世に出ました。スパイ伝説のどこにもない、静かで、さびしい声が、そこにはあります。

さとえの見立て――歴史は、勝者が書く

このブログで何度も書いてきたことですが、歴史は勝者が書きます。川島芳子は、中国では「漢奸」として断罪され、日本では「男装の麗人」として消費された。方向は逆でも、どちらも一人の人間を、都合のいい物語に押し込めて消す点では同じでした。

松本が守っているのは、そのどちらでもありません。名前を刻まない木、卒業名簿の空白、寺の墓、二百首の歌、そして毎年集まる人々――戯画(カリカチュア)に、最後の言葉を渡すまい、とする人たちの記憶です。

恩師は言いました。「日本が中国を侵略したと言われるけれど、その中には、清朝の文化遺産を守るために必死で努力した日本人もいた――それを、忘れないでほしい」。私はこの言葉を、何十年も胸に抱いてきました。この記事も、そしてこのブログの清朝シリーズ全体も、たぶん、この一言への私なりの答えなのだと思います。

おわりに――同じ道を通った、二人のこと

浅間温泉の川島邸は、今はもうありません。その跡地の前では、いまは普通の市民が、小学生の登下校の安全を見守る立ち番をしています。清朝の姫が馬でいた場所に、日常が、静かに続いています。

芳子が馬で女学校へ通ったその道を、百年後、また一人の少女が通学路にしていました。同じ一本の道です。けれど、その道には今、別の名前がついていて、芳子の名は、どこにも刻まれていません。

私には、一つの願いがあります。この道が、いつか「川島芳子の道」と呼ばれたらいい、と。教養の人・李鴻章の名を冠した道が中国にあるように、この松本の道にも、ここを馬で通った姫の名が、いつか帰ってきたらいい。名前を取り戻すことは、戯画に消されかけた一人の人間を、もう一度この土地に呼び戻すことだから。

そして、この道の前に立つと、私はいつも、同じことを思います。

百年を隔てて、同じ道を、二人の少女が通りました。一人は、自分の道を選ぶことができました。学びたい場所へ進み、生きたい人生を、自分の足で選んでいきました。

けれど、百年前に同じ道を通った川島芳子は、自分の道を選ぶことができませんでした。父の夢を託され、政略に嫁がされ、二つの祖国に引き裂かれ、最後は「家あれども帰り得ず」と書き残して、異国で銃殺された。彼女の前には、選べる道が、とうとう一本もなかったのです。

同じ道を通りながら、道を選べた者と、選べなかった者がいる。――歴史とは、たぶん、そういうことなのだと思います。それは遠い本の中の出来事ではなく、今も誰かが通っている、一本の通学路の上に、確かに続いているのです。

だからこそ、私は書きます。選べなかった人の道を、せめて忘れないために。

◀ 英語版(English):[Yoshiko Kawashima Beyond The Last Emperor(松本が覚えている彼女)]
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