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長歌行 阿詩勒部 李世民

隋の末期のチュルク族と李淵

楊帝は、歴史上有名な暴君で、自分の快楽のことしか考えず、民衆の生活には無関心だったため、民衆の不満が爆発していました。

各地に多くの「反隋」の考えの人たちがいて、アシル部は(テュルク人の一部)であり、

テュルク人はこの機に乗じて、これらの「反隋」の人々に最大の支援を与え、

中央平原で内紛を引き起こし、漁夫の利を得て支配しようとしました。

彼らは、馬だけでなく、豊富な鉱石資源があり、質の高い武器を作ることができました。

一方、綿や絹、茶や陶磁器など、物資の一部が不足していたので、中原が魅力的だったのです。

実際唐を建国した李淵は東トルキスタンに服従し、金銀財宝を送り、

東トルキスタンは馬、武器、兵力などの戦力面での支援を行いました。

李世民とチュルク族

李世民は、いまだ唐の基盤は成っておらず、チュルク族を警戒しなくてはいけないと思っていました。

しかし、前皇子の李建成は、アシル部(チュルク族)に対してあまり危機意識を持っていませんでした。

唐の基盤を築くために李世民は決意します。

玄武門の変、のあと、李世民は唐の内紛を防ぐことに心血を注ぎます。

李建成の残党を懐柔するか、処罰するかしなくてはなりませんでした。

李長歌は、当初、李世民を憎んでいましたが、次第に唐が内紛することいけないと気づいていきます。

阿詩勒部の部族の内部対立

阿詩勒隼(アシラ シュン)は、幼少の頃からの決断力と思慮深さから信頼されていました。

正元3年(西暦629年)、阿詩勒部が抑えていた薛雁頭族が反乱を起こしました。

李世民はこれを機に薛雁頭族と連絡を取り援護しました。

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阿詩勒部の軍隊は壊滅的打撃を受けました。

ハーン自身は馬に乗ってシャバルオ族の領土に逃げ込みました

この時、シャバルオ族は唐軍の攻撃を受けなかったので、ハーンらは彼らの力を利用して唐軍と戦い続けようとしました。
それに対し、阿詩勒隼(アシラ シュン)は状況を冷静に理解していました。

彼は一族全員の命を守るため、ハーンを生け捕りにした。

自分は一族全員を率いて唐軍に降伏しました。

李世民は阿詩勒隼(アシラ シュン)を厚遇する

事件の詳細を知った李世民は詔を出し、阿詩勒隼(アシラ シュン)を左将軍に任命し、公主を娶らせました。

正元13年(西暦639年)、李世民は、阿詩勒隼(アシラ シュン)をトルコの左徳王に即位させ、帰還を許しました。

しかし、この頃には阿詩勒隼(アシラ シュン)も大唐の生活に慣れており、以前のように草原をさまようことは望んでいませんでした。

彼は何度も使者を通じて李世民に手紙を書き、唐にいることを求めました。

李世民は阿詩勒隼(アシラ シュン)の要求を受け入れ、長安に住まわせました。

阿詩勒隼(アシラ シュン)は48年間、唐の世で何一つ過ちを犯すことなく平穏に暮らし、唐に忠誠を尽くしました。

チュルク族と唐の戦争

李世民とチュルク族のハーンの政治戦略の方向性は異なっていました。

チュルク族のハーンは徹底的に戦う

一方、李世民は、相手の内紛をつく、

チュルク族の中には、好戦派と戦争したくない派閥があることを見抜き、二つを分離し、戦争をしたくない派閥には援助を与える、その結果、唐の礎が築けました。

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