恵文王の皇太子時代の後宮は、魏を中心とした黄河流域の近隣の姫たちで構成されていましたが、恵文王の父の時代に、秦は商鞅を迎えて国力を上げてきました。周辺諸国は次第に秦に脅威を感じるようになり、斉、燕、趙、魏、韓の列国は強大な楚と組んで対抗しようと考えるようになりました。これが「合従」と呼ばれる戦略です。
恵文王は合従を邪魔するために、楚に行き、ついでに楚の公主を嫁に迎えることを決めました。後宮の構成から、秦の国力が増してきたことがわかります。
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また、秦は合従する国々に対し、秦と結んで隣国を攻める利を説いて、合従から離脱させる戦略も取りました。これが「連衡」です。六国の間を対立させ、特定の国と結んで他国を攻撃したり、結んだ国から同盟の代償として土地や城を供出させることを目指しました。この戦略を代表する論客は張儀です。
恵文王は連衡の策のために楚の公主を娶ったり、魏からの夫人が問題を起こしていることも承知しながら、それでも後宮の争いにはあまり関与したくありませんでした。
後に范雎は「遠交近攻」を唱えました。これは遠方の国と手を組み、近隣の国を攻撃することで秦の領土を拡張する戦略です。
遠方の燕から婚姻同盟の提案が持ちかけられた恵文王は、娘の孟嬴を燕の王に嫁がせることにしました。