> ※この記事は、私の遼(契丹)シリーズの一篇です。「[火神淀の乱]」で世宗を斃した反乱を鎮め、帝位に就いたのがこの穆宗。そして「[耶律賢(景宗)]」を宮中で養い、怯えさせた当の暴君でもあります。シリーズで西太后の悪女バイアスを剥がしたように(→「[西太后はいかにして台頭したか]」)、ここでは「睡王=ただの愚かな暴君」という像を、少しだけ剥がしてみます。
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はじめに——矛盾のかたまり
遼の第四代皇帝・穆宗(ぼくそう/耶律璟・やりつけい、契丹名は述律、931〜969)は、中国史でも特異な皇帝です。
専制的で残忍な顔を持ちながら、その治世に農業や民政で一定の成果も上がった——光と影が、一人の中で同居していました。
即位の経緯——血統が「太宗の家」に戻る
951年、耶律察割による火神淀の乱が起き、世宗(耶律賢の父)が宴の席で殺されました(→「[火神淀の乱]」)。この乱を鎮めて帝位に就いたのが、穆宗です。
ここに、見落とせない一点があります。世宗は、太祖の長男・耶律倍の家系でした。穆宗は、太宗(太祖の次男・耶律徳光)の長男。
つまり火神淀をはさんで、帝位は倍の家から、再び太宗の家へと戻ったのです。遼の前半は、太祖の二人の息子の家系が、玉座をめぐって暗く争い続けた時代でもありました。
専制と弾圧——「睡王」の恐怖政治
穆宗の治世は、徹底した反対勢力の弾圧で彩られています。世宗に近い大臣を退け、公然と逆らう者・謀反を企てる者を容赦なく処刑しました。
太祖の三男・李胡(りこ)の子、耶律喜隠(やりつきいん)は何度も反乱を起こし、連座して李胡も獄に下されて、獄死したと伝わります。
弾圧は身内にも、ささいな相手にも及びました。穆宗は臣下に政治の議論をすることすら禁じ、酒に酔っては近侍を理由もなく手にかけた。史書には、一度に四十六人を殺したという記録さえ残ります。
> 「眠れる王」 穆宗が「睡王(すいおう)」と呼ばれたのは、夜通し酒を飲み、明け方にようやく眠り、昼ごろ起きる——そんな暮らしで、長く政務を放り出していたからです。
怠惰と酒と殺戮。これが、史書の伝える穆宗の基本の顔です。
もう一つの顔——治世に栄えた農業
ところが、それだけではない、というのが穆宗の難しさです。
『遼史』によれば、遼の西の要地・雲州(現在の山西省大同)一帯では、この時代に農業が大きく発展し、良質な穀物が穫れて、他へ供給できるほどになったと記されます。
穆宗の治世には租税の減免や民を労わる勅令も出され、後世「民は生活に満足した」と評する声もありました。
皇帝みずから農事を促す儀礼を行い、旱魃には雨乞いをし、洪水の被害地には減税で応じた——そうした記録も残っています。
> 史実の整理(バイアスを剥がす)
ここは慎重に。穆宗の「睡王・暴君」像は史書の主流で、これは動かしません。
一方で近年は「本当に遊猟と惰眠ばかりの残虐な男だったのか」と問い直す見方もあり、雲州の農業発展のような“地味な成果”に光を当てます。
私の整理はこうです——皇帝個人の堕落と、その治世下で進んだ社会の成長は、別の話として切り分けたほうがいい。
穆宗が有能な農政家だったというより、太祖以来の開発(漢人を移し、城郭を築き、農地を開く=「[韓延徽(胡漢分治)]」の路線)が、無能な皇帝の下でも惰性で実りつづけた、と見るのが穏当でしょう。
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ドラマ「燕雲台」と史実——耶律只沒のこと
ドラマ「燕雲台」では、穆宗の宮中で、世宗の遺児たちが怯えながら育つ姿が描かれます。なかでも、耶律賢(景宗)の異母弟耶律只沒(やりつしぼつ)が、宮中の女性との密通の罪で目を潰され宮刑に処される——という痛ましい筋があります。
ただし、ここは整理が必要です。この密通と宮刑の物語は、ドラマの創作です。
耶律只沒は実在の人物(世宗の子、耶律賢の異母弟)ですが、史実の彼は穆宗に処刑されたわけではありません。兄・耶律賢が即位すると召し出されて寧王に封じられ、のちに一度爵を奪われるものの、聖宗の代まで生きました。
ドラマの強烈な悲劇は、あくまで脚色です。実在の只沒は、兄の時代に生き延びた人でした。
治世後半の堕落と、最期
治世の後半、穆宗はいよいよ酒に溺れ、病もあって政務を顧みなくなります。度重なる謀反に神経をすり減らし、誰も信じられなくなっていった——その果ての最期は、あまりに象徴的でした。
969年、黒山(現在の内モンゴル・バリン左旗のあたり)での狩りの夜。熊を仕留めた穆宗は、したたかに酔い、熊の肉を出せと命じます。
料理人(庖人)の辛古(しんこ)がすぐに出せないと、穆宗は「殺す」と脅した。その夜、身の危険を感じた近侍たち——小哥(しょうか)、湯番の花哥(かか)、料理人の辛古ら数人——が示し合わせ、辛古が天幕の中で穆宗を刺し殺しました。
理由もなく人を殺し続けた皇帝が、殺すと脅した相手に、その夜のうちに殺される。火神淀の血で玉座に就いた男は、自らまき散らした恐怖に、最後は自分が呑み込まれたのです。
私の見立て——「凍りついた中間」と、食卓の因果
穆宗を、シリーズの縦糸の上に置いてみます。
征服王朝のジレンマ(漢化するか、しないか)に、世宗は「急ぎすぎて」殺され、景宗は「均衡」で答え、韓延徽は「二つの物差し」という制度で答えました。
では穆宗は——彼は、どちらにも踏み出せなかった凍りついた中間だったように見えます。漢化を推し進めるでも、契丹に純化するでもなく、ただ恐怖で現状を凍結し、酒で時間をつぶした。社会は太祖以来の惰性でゆっくり育ったけれど、皇帝自身は何も選ばなかった。
彼の十八年は、火神淀の暴力と、景宗の知恵のあいだに横たわる、長い空白だったのかもしれません。
もう一つ、私が惹かれるのは食卓の因果です。火神淀では、祖先を祀る「宴」が殺戮の場になりました。
穆宗は、その宴の流血を鎮めて立った人なのに、最後は「熊の肉」をめぐって、料理人の手で死ぬ。『万葉集』の蟹の歌で読んだ「[召されるとは喰われること]」
——権力の食卓は、いつだって血にいちばん近い。出す者と、出される者と、脅す者の立場は、ひと晩で裏返る。穆宗の死は、その冷たい真実を、これ以上ないほど鮮やかに見せてくれます。
「睡王」と一言で片づけてしまえば、それまでです。けれど、暴君の顔と、栄えた農地と、料理人に刺された最期を並べて見ると、一人の皇帝の中にも、時代の矛盾がまるごと畳み込まれている。それを解きほぐすのが、史実をたどる面白さだと思うのです。
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