コウラン伝5話に出てきた楼煩について
王妃の女官にコウランが陥れられそうになります。
その女官はかつて趙に滅ぼされた楼煩の貴族であったという設定だったので、楼煩について調べてみました。
楼煩国、趙に取り込まれる
春秋時代の頃に成立した遊牧民族。
主に家畜で生活し、乗馬や射撃が得意で、獰猛で勇敢であったそうです。
フフホトから山西省北部にかけての地帯にいました。
最盛期には、秦、晋、燕に対抗する勢力にまでなりましたが、趙の武陵王によって滅ぼされました。
というか、取り込まれました。
趙の武陵王は楼煩の人々を殺すのではなく、取り込んで、趙のために兵を再編成しました。
楼煩の人々は強力な兵士でしたので、彼らが加わることで、さらに趙の軍隊は強くなりました。
ですから趙は強力な軍事大国と言われました。
中華の戦争方法が変わる 胡服騎射
また、武霊王は、楼煩の戦法を真似することにしました。
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それまでの中原の貴族戦士の伝統的な戦術は、3人の戦士が御者と弓射、矛による白兵戦を分担する戦車戦でした。
ですから、戦車の数がたくさんある方が有利でした。
また戦車が走れるような平地でなくては戦えませんでした。
それに対して北方遊牧民族は戦車を使わず、戦士が直接1頭の馬に乗って弓を放っていました。
平地でなくても戦うことができるし、高価な戦車をたくさん作る必要がないという利点がありました。
「胡服騎射」と呼ばれる丈の短い上着で馬に乗って弓をいる方法です。
従来の貴族戦士からは、反対されたようですが、武霊王が一人ずつ丁寧に説得したそうです。
これが彼らの忠誠心を上げることになったそうです。
ちなみに武霊王は、秦の武王が没したので、燕にいた公子稷(のちの昭襄王))を秦へ送り込んでいます。