愛(仁)で人々を救済できるのか
漢王朝は衰退して、諸侯が群雄割拠する乱世となっていました。
戦が繰り返され、各地の兵の残党は、やむなく盗賊となり、民を襲うようになりました。
司馬家の管轄する河内(かだい)の領内でも、盗賊が小さな集落を襲っていました。。
見回りをしていた司馬家の次男、司馬懿(仲達)と楊平(義和)の二人がそこに現れました。
司馬懿は盗賊をためらいなく殺していきます。
対して楊平は命乞いをする盗賊の若者に情けをかけて逃します。
楊平は全ての人に憐れみを持っていて、殺すことができません。
司馬懿は、その優しさは「宋襄の仁」(不必要な哀れみを施してひどい目にあうこと)であるといい、
老子の言葉を続けます。
「天地不仁、以万物為芻狗」
tiān dì bù rén 、 yǐ wàn wù wéi chú gǒu
(天地は仁ならず、万物を持って芻狗と為す)
老子の言葉
天地は仁=思いやりや愛に基づいて世界を動かしているわけではなく、
ただただ“無心”に、ありのままに、動いているだけ。
天の“情け”などない。
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天が救ってくれるなどと考えるのは、甘え。
人間の都合の良いように考えているだけ。
天地は仁などではなく、
あらゆる命も人間も、公平に“わら犬”のように扱っているだけ
わら犬=“芻狗”とは、祈願や厄払いのために神前に供えられる
わら細工の犬のことで、犠牲(いけにえ)の代用品のようなもの
芻狗(わら犬)は祭祀の時には美しく飾られ大切に取り扱われるが、
一旦祭祀が終ると、路傍に棄てられ、通行人から踏みにじられ、
ついには草刈りに拾われて、たきつけにされてしまう。
人々は別にわら犬を愛して大切にする訳でも、わら犬を憎んでいる訳でもない。
ただそれは、使命を果たすために作り出され、それが終れば元の世界に引き戻されるだけ。
戦いがなくなって人心が安らかになるには何が必要なのか
漢王朝は仁としました。
しかし、仁だけで、戦いをやめさせることができるのでしょうか