> ※この記事は「草原の帝国」シリーズの一篇で、「[冒頓単于(匈奴)]」と「[回鶻(ウイグル)の歴史]」のあいだを埋めます。匈奴ののち、草原の覇権はいくつかの民を経て、テュルク系の突厥(とっけつ/テュルク)へと渡りました。突厥は、のちの草原帝国に「可汗(カガン)」という称号と、最古の遊牧民自身の文字を遺した、重要な一区間です。そして突厥を倒して立つのが、次の回鶻なのです。
—
はじめに——狼を祖とする、鍛冶の民
突厥の支配氏族阿史那(あしな)氏には、有名な起源伝説があります。敵に一族を滅ぼされ、湿地に捨てられた幼子を、一頭の牝狼(めすおおかみ)が育てた。やがて子と狼は結ばれ、狼は洞窟の奥の広い平原で十人の子を産み、その一人の子孫が阿史那氏になった——という、狼を母とする物語です。草原の覇者にふさわしい、猛々しい神話でした。
史実の阿史那氏は、もともと草原の覇者柔然(じゅうぜん)に仕える、鉄を打つ職人(鍛冶の民)だったと伝わります。鉄を制する者が、やがて草原を制する——その伏線のような出自です。[『長歌行』阿詩勒隼(あしなしゅん)のモデルたち]
建国——552年、柔然を倒す
552年、阿史那氏の土門(ともん/ブミン)が、主であった柔然を打ち破ります。柔然の可汗・阿那瓌(あなかい)は自害し、土門は自ら伊利可汗(いりかがん)と称して、突厥を建国しました。
> 「単于」から「可汗」へ ここで、草原の称号が変わります。匈奴の君主は[冒頓]以来「単于(ぜんう)」と称しましたが、突厥の君主は「可汗(カガン)」を名乗りました。この「可汗」こそ、以後の回鶻も、契丹(遼)も、モンゴルも用いる、草原の標準の称号になります。突厥は、のちの草原帝国に君主の呼び名そのものを遺したのです。
西への拡大——シルクロードとビザンツ
土門の弟室点蜜(しってんみつ/イステミ)は、西方へと突厥の勢いを広げました。ペルシア(サーサーン朝)と組んで中央アジアのエフタルを滅ぼし、ソグド人の地を支配下に置きます。やがてペルシアと対立すると、今度ははるか西の東ローマ(ビザンツ)帝国と手を結びました。
こうして突厥は、シルクロードの東西交易を握る草原帝国となります。草原の民が、ユーラシアの東西をつなぐ商路の上に立つ
——この姿は、のちに絹と馬の交易で栄えた[回鶻]や、その富の都[可敦城]へと、まっすぐ受け継がれていきます。草原の帝国は、馬の速さと、商路の富で立つ。その型を、突厥が大きく描き出したのです。
東西分裂——583年
広がりすぎた帝国は、やがて内紛から、583年に東突厥と西突厥に分裂します。西突厥は中央アジアを、東突厥はモンゴル高原を中心に分かれ、それぞれの道を歩むことになりました。
東突厥と唐——渭水の盟と、天可汗
東突厥は、隋・唐の中華と、激しく対峙します。物語の山場は、唐の初めでした。
渭水の盟(626年)。 唐で玄武門の変が起きた直後の混乱を突き、東突厥の頡利可汗(けつりかがん)が大軍で南下し、都・長安のすぐ北の渭水にまで迫ります。
即位したばかりの唐太宗・李世民は、まだ戦う力が足りない。そこで彼は、渭水の橋で頡利可汗と会盟し、多額の金品を贈って引き取ってもらったのです。これが「渭水の盟」。唐にとっては、屈辱の和議でした。
> またしても、中華が草原に払っている ここに、このシリーズを貫く型がはっきり現れます。匈奴の[冒頓]が漢の劉邦から「和親」(公主と財貨)を引き出し、
いま東突厥が唐から渭水の金を引き出し、
そして千年後、遼の[蕭燕燕]が宋から澶淵の歳幣を引き出す(→「[澶淵の盟と蕭燕燕の中央集権]」)。
強大に見える中華帝国が、草原の騎馬に金を払って和を買う——この構図は、冒頓から澶淵まで、形を変えて繰り返されたのです。
天可汗(630年)。 けれど振り子は、逆にも振れます。
力を蓄えた唐太宗は、629年冬、名将・李靖に大軍を授けて東突厥を攻め、630年、頡利可汗を捕らえて東突厥(第一可汗国)を滅ぼしました。このとき北方の諸部族は、唐太宗に「天可汗(てんかがん)」——草原の民の支配者をも意味する称号——を贈ります。中華の皇帝が、草原の可汗をも兼ねた瞬間でした。草原と中華の力関係は、一方が常に上なのではなく、こうして何度も振れ続けたのです。[ドラマ『長歌行』と東突厥の滅亡]
後突厥と、最古のテュルク文字
東突厥は、唐の緩やかな支配(羈縻)の下に置かれますが、682年、阿史那骨咄禄(こつとくろく/イルティリシュ)が独立を回復し、「後突厥(第二可汗国)」を再興します。名臣暾欲谷(とんゆうこく/トニュクク)が補佐し、その後、毗伽可汗(びるがかがん/ビルゲ)と弟の英雄闕特勤(けつとくごん/キョル・テギン)の時代に最盛期を迎えました。
この後突厥が、人類史に残る贈り物を遺します。オルホン碑文です。トニュクク碑(716年)、闕特勤碑(732年)、毗伽可汗碑(735年)——モンゴル高原に立てられたこれらの石碑には、突厥文字(テュルク文字)で、可汗自身の言葉が刻まれました。これは、遊牧民が自らの言葉を自らの文字で記した、最古の記録です。
闕特勤碑には、漢文との対訳とともに、「漢人の甘い言葉と柔らかな絹に惑わされるな、我らの土地を離れるな」という趣旨の、漢化への警告が刻まれていると読まれてきました。
草原の民が、漢の文化に呑まれまいと、自分たちの文字で自分たちの誇りを刻む。
これは、このシリーズの背骨——征服王朝が抱える「漢化か、独自性か」の亀裂(→「[遼で読む征服王朝(入門)]」)の、いちばん古く、いちばん鮮烈な表明でした。
のちに契丹の[耶律阿保機]が契丹文字を創ったのも、同じ衝動の延長線上にあります。
おわりに——そして、回鶻へ
暾欲谷・闕特勤・毗伽可汗が相次いで世を去ると、後突厥は急速に衰えます。そして744〜745年、配下だった鉄勒系の回紇(ウイグル)が、葛邏禄(カルルク)らと結んで後突厥を打ち倒しました。最後の可汗は殺され、突厥の時代は終わります。
このとき回紇を率いて立ったのが、[回鶻(ウイグル)の歴史]の主役・骨力裴羅でした。突厥の滅亡は、そのまま回鶻の建国だったのです。草原の覇権は、匈奴から突厥へ、突厥から回鶻へ、そして回鶻から契丹(遼)へ——滅びては次が立つ、長いリレーとして続いていきます。突厥は、そのバトンに「可汗」の名と、誇り高い文字を握らせた、忘れがたい走者でした。
—
◀ 草原の帝国シリーズ:[冒頓単于(匈奴帝国の祖)] | [長歌行と東突厥の滅亡(ドラマ版)] | [回鶻(ウイグル)の歴史] | [葛勒可汗] | [可敦城の興亡]
◀ 遼(契丹)へ受け継がれる型:[澶淵の盟と蕭燕燕の中央集権(中華が草原に払う)] | [耶律阿保機(独自文字の創製)] | [遼で読む征服王朝(入門・ハブ)]
◀ シリーズ一覧:清朝末期シリーズ 完全ガイドへ
—



